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なぜ『山月記』における「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」というフレーズをほとんどの日本人が覚えているのか

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おそらく日本人の大多数の大人が高校現代文の授業で『山月記』を学んだはずだ。そして、その中でもとりわけ鮮明に記憶に残っているフレーズに「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」というものがあるだろう。

なぜ、これらのフレーズはここまで人々の脳裏にしっかりと刻み込まれているのだろう。「山月記」という教材を扱うたびに、一見何の変哲もないこの六文字に、一体どれほどの力が備わっているのか、ということに思いを馳せずにはいられない。

 

【目次】

 

 

 

「定番」ゆえに加速度的に名が売れる現象

 

単純に考えれば、大体以下のような理由が挙げられようか。

 

①「定番」であるがゆえに教える側も熱が入った授業を行いがちで、それが強い印象に残っている。

②「定番」であるがゆえに人口に膾炙されがちであり、思い出話などで話題に上る機会が単純に多く、人々の記憶に残りやすい。

 

定番であるが故の強さに支えられ、人々の記憶に根強く残り続けているパターンだ。バンドワゴン効果にも似た、世を支配する大きな原理の一つ「持つ者は更に持つ」の原則がここでは発動しているようにも思える。

教える側は「定番教材(=有名作品)だから、生徒の記憶に残るような授業をしよう」と意気込み、教わる側もまた「周囲の人はみんな知っているのだから、この作品は常識として忘れないようにしよう」という意識が自ずと働くわけだ。

 

 

ただ言葉を覚えているだけの無意味さ

 

確かに、周囲の大人(高卒の方々)に確認をすると、『山月記』というタイトルははっきりと覚えているし、例の「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」についても、「高校の授業で習って聞き覚えがある」と口を揃えて話をしてくれる。

ただ、「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」が作中人物のどのような状況を指しているのか、ということについて問うと、半数近くが「それについてはあまり覚えていない」と語る。また、「これらの言葉から一体何を学んだか」について問うと、大半が首を傾げてしまう。

つまりは、大まかなあらすじと、印象に残るフレーズ“しか”覚えていない、ということになる。

 

これは、同じく現代文の定番教材である『羅生門』や『こころ』についてもほぼ同様の指摘が可能なのかもしれない。

ともかく、こうした定番教材については「大まかなあらすじ」は覚えていても、「その教材から何を学んだのか」についてはほとんどの人が覚えていないし、むしろ「あらすじを覚える」ことがその単元を学んだ証であるかのように語られることが本当に多い。

果たして、これにどれほどの意味があるというのだろうか。あらすじなどはwikipediaを検索すれば一瞬で分かってしまうものであり、それをいちいち授業の成果として挙げるのは何かがおかしい。

 

「教科書を教える」ではなく、「教科書で教える」は、国語教育における金科玉条であるはずなのだか、こうした「定番教材」をめぐる現状からは、はなかなか理想通りになっていないという現状を垣間見ることができる。

 

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「表現不可能」を表現する試み

 

 「臆病な自尊心」「尊大な羞恥心」。これらのフレーズの秀逸さは、一見して相反するような人間心理を内包しながらも、その意味する内容を丁寧に解きほぐしていくことによって、決して矛盾しない人間存在の深遠を端的に描き出していることが判明する、という含蓄の深さにある。

 

作品の根幹をなすのは、主人公「李徴」の一癖も二癖もある性格と、それによってもたらされたであろう壮絶な人生である。そして、それは決して「李徴」という人物に特有な現象というわけではなく、現代人の生き方に示唆するところは非常に大きい。我々は、「李徴」というレンズを通して自分自身の生き方を内省することになる。

 

自恃の念の暴走と、それゆえ生じるコンプレックスの肥大化。

これらの相克を言語で簡潔に表現するのは並大抵のことではない。まさに文学の文学たるゆえんはここにあるわけで、複雑怪奇な人間心理をいかに簡潔な言葉、あるいは共感を生むフレーズに置換することが可能なのか、という試みは、もちろんこの『山月記』という作品においても追及されている。

 

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「強い言葉」は印象に残りやすい

 

この二つのフレーズには一種の「撞着語法(オクシモロン)」という手法が採られていると考えることができる。

 

wikipediaの該当ページの説明によると、

 

撞着語法(どうちゃくごほう、英語: oxymoron)とは、修辞技法のひとつ。「賢明な愚者」「明るい闇」など、通常は互いに矛盾していると考えられる複数の表現を含む表現のことを指す。形容詞や連体修飾語、句、節などが、修飾される名詞と矛盾することとしては、形容矛盾(けいようむじゅん)とも言う。論理的には、「Aであって、かつ、not A」であるということはありえない(矛盾律)のにもかかわらず、そうであるかのように語ることである。狭い見方をすればつじつまがあわず、単なる誤謬にすぎないように見えるが、複雑な内容を簡潔に表現する修辞法として用いられている場合もある。

 

とある。

 

 

相反する言葉を敢えてセットにすることで、物事の本質を浮き彫りにさせようとするという点では、パラドックスの一種とも考えられようか。

 

このように、他者に何か強いメッセージを伝える際、あえて「ひっかかり」を作ることが効果的に働く場面は多い。「問題提起」にせよ、「反語」にせよ、「二重否定」にせよ、「倒置法」にせよ、読者に一瞬「お?」と思わせることで、該当箇所をそれまでと同じ速度で読むことを妨げ、結果として読者に強く印象付けようとするわけである。物理法則と同じく、摩擦は大きければ大きいほど大きなエネルギー(熱)を生む。

 

それを効果的・意図的に利用するテクニックの一つとしてこの「撞着語法」は生み出されたわけだ。

 

「臆病」なのに「自尊」。「尊大」なのに「羞恥」。

我々読者はこの相反する二者が一つの表現にさも自然であるように組み込まれていることに違和感を覚え、思わずその場に釘付けにされてしまう。そして、それらが決して矛盾せずに共存可能な要素であることを読み取る(あるいは、授業において解説を受ける)ことで、溜飲を下げると共に、より強く脳裏に刻み込む、というわけだ。これはほとんど作者である中島敦の意図した通りの顛末であると言えるだろう。なんともよくできた表現である。

 

 

原理を理解した上で、授業にどう生かしていくのか

 

授業で『山月記』を扱う際には、毎回こうした「他者に効果的に伝達するための修辞技法の妙」ということにまで踏み込んで話をするようにしている。

単純に「何か変なフレーズが出てきたなぁ」という印象で終わるのではなく、それが「読者へ強い印象を与えるためのテクニックなのだ」ということを理解してほしいし、それより何より、今度は生徒自身が「表現者」の立場でこうした「表現の意図」を明確に意識し、より的確な表現をその都度取捨選択しながら他者への伝達を行えるようになってほしい、という思いがそこにはある。

 

『山月記』という作品からそうした手法の在り方について学ばせた後の展開としては、やはり実際に「表現」する活動へと繋げていきたいところである。

自由に作品を書かせる「ライティングワークショップ」でもいいのだろうが、今回の授業では「キャッチコピー作成」という活動へと繋げることで、「相手に刺さる強い言葉の作り方」を実践の場で養ってもらった。

 

この件についてはまた後日、改めてまとめておきたいと思う。

 

 

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