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私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

【読書】「直感と論理をつなぐ思考法」 ――ビジュアルと言葉のコラボが、時代を切り拓く思考を磨く

直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

 

 

タイトルにもあるように、いわゆる「思考法」のハウツー本。
ただしこの本が対象とするのは、インスピレーション的な「ひらめき」を他者に伝達可能な「論理」に下ろすための思考法である、という点で少し珍しい部類に入るのではないだろうか。
「ひらめき」の発想法や「論理的」な思考法は巷に溢れかえっているのだが、その二つを有機的に結びつけようとしているところにこの本の独自性がある。

 

直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

直感と論理をつなぐ思考法 VISION DRIVEN

 

 

【目次】

 

 

「感覚」に根ざした論理的な思考の難しさ


そもそも私たちは、「直感」と「論理」について両者を相容れないものとして捉えている。
例えば、生徒の発言に対してその根拠を尋ねると、結構な頻度で「なんとなくです」といった返事が返ってくる。その根拠は曖昧模糊とした不確かなものであり、当の生徒自身でさえその全容を掴み切れていない状況にある。そこでの思考はあくまでも直感に依る部分が大きく、他者に理路整然と伝達できるような筋の通った理屈では無いのだ。


そんな感じで、私たちの日常には他者にうまく説明できない「モヤモヤ」が溢れており、それを表舞台に引きずり出すことに苦慮する場面が往々にしてあるように思う。

作文指導をする際に生徒から寄せられるお悩みは、「適切な表現が見つからない」と「そもそも何を書けばいいのかが分からない」の双璧である。頭の中に「ぼんやりとしたイメージ」はあるのだけれども、それをうまく外に出すことができない、というわけだ。

 

そんな感じで、生徒たちは「感覚」を自在に飼い慣らす術を欲しているのだが、そのノウハウは簡単に伝授できるものではない。個々人に固有な「直感(≓センス)」によるものだからそう簡単には身につくものではない、という思いが教師の側にも少なからずあるはずだ。
 

 

正解主義による「自分らしさ」の抑圧


少し見方を変えてみると、こうした「感覚をうまく表現できない」という状況に陥っている一つの要因として、「極端な正解主義」を挙げることもできるだろう。


本書では、SNSなどに代表される「個にクローズアップされたネットサービス」の普及を根拠として、

 

逆説的に響くかもしれないが、「あなたのためにカスタマイズされた情報」に触れれば触れるほど、あなたの頭のなかは「ほかの誰か」と同一化していくのだ。

 

どうしても人々の投稿は、他人から称賛を得やすいものばかりに偏り、似たようなポストばかりが世の中に溢れることになる。ニュースサイトのコメント欄などでは、本人は「自分の意見」のつもりで書いていても、結果的には「誰かが言っていそうな意見」に終始したものが多数観察される。

 

といった指摘をしているわけだが、これは結構的を射ていると思う。確かに、他人の目を意識するあまり、自分自身の自由な思考を無意識のうちに抑圧してしまっている状況は結構あるような気がする。
もちろん、そうした「滅私」という方向での他者意識は社会生活を送る上で重要なものなのだけれども、結局は時と場合によりけりである。正解が無いこの現代社会では、批判されることを恐れるあまり、「万人受けするような決まり切った正解」に縋ってしまう現状は確かにある。その結果、個人の「感覚」に基づく自由な発想や創造性は奪われてゆき、誰も彼もがどこかで見たような無難な答えに落ち着いてしまうわけだ。

 


「センス・メイキング」の3つのプロセス


本書では、こうした現状を打破するための「センス・メイキング」として、「感知・解釈・意味づけ」の3つのプロセスを挙げており、それぞれのプロセス毎に詳しい解説が付されている。大まかにまとめると以下のような感じだろうか。


プロセス① 「ありのまま」に感じ取る

人間は外部から受け取る情報に対して、無意識のうちに「主観」に基づく付加価値を与えてしまうものであるが、それが「根源的な感覚による発想」を妨げているのもまた事実である。
よって、まずはそうした余計な付加情報を取り除きながら情報を「あるがまま」のまっさらな状態で掴み取るだけの観察眼を養う必要がある。

 


プロセス② 手で描きながら考える


頭の中のモヤモヤを下手に言語化しようとすると、大抵の場合思考はそこで手詰まりになってしまう。大事なのは頭の中のモヤモヤを、なるべくオリジナルな状態のまま視覚的な情報に落とし込むことであり、それを客観的に眺めることで、それまでに気づいていなかった新たな「発見」を呼び起こす契機とすることができる。何はともあれ、頭の中だけで処理しようとせずに、まずはそのままの形でアウトプットすることを目指すべきである。
(とりあえず手を動かせば、それによって思考が刺激を受けて新たな発想に繋がる、という考え方であるが、これは作文にも当てはまる。とりあえず書いてみたら思いの外スラスラと筆が進んだ、というのはよくある現象だろう。)

 


プロセス③ 「画像」と「言葉」を往復する


これまでのプロセスは視覚的な情報に基づいて行われてきたが、そうして外化された情報に「意味」を与える段階になると、そこには「言語」が不可欠となってくる。
しっかりと分析を行いながら、他者に伝達できるだけの確実な意味づけを行う必要があるのだが、その際は決して「画像→言葉」の一方通行では無く、あくまでも両者を行ったり来たりさせながら考えていかなければならない。

 

 

「言語」の無力さと、それを補うビジュアル思考のススメ


本書ではたびたび、「言語は便利である反面、ひどく不確かなものである」と言及される。

 

事実、全くその通りであり、言語は決して万能なツールではない。過信は厳禁である。

言語を扱う国語教師だからこそ、そこはしっかりと線引きを行って生徒に伝えていかねばならない。

 

人間の思考は肉体的な制約から離れた領域の中、途方も無い早さと規模で常に展開され続けている。そんな思考を言語に変換する際には、どうしてもブレーキをかける必要があり、結果としてかなりの情報が削ぎ落とされてしまう。そうして辛うじて形になった残滓を頼りにして、言語によるコミュニケーションは行われていると言っても過言では無いだろう。

 

そうした観点から、本書では

 

実際に解釈をするにあたっても、いきなり言葉に落とし込まないほうがいい。感知した内容のほとんどをそぎ落としてしまう言語化は、最後のステップにとっておき、その手前に「言葉を使わないで、1つの全体像として解釈するステップ」を用意しておくのである。その際に有効なのが「絵で考える」という手法である。

 

自分の「妄想」ないし「ビジョン」を他者に伝えるとき、最も避けるべきなのは、「言葉」や「文章」に頼ることである。いくらそのビジョンが「あなたの根本的関心」とつながっているのだとしても、相手は何も興味を持っていないと思っておいたほうがいい。だからこそ、文字を追う必要がある「テキスト」ではなく、パッと見て理解できる「ビジュアル」に落とし込んでおくべきなのだ。

 

と述べられており、直感的な思考を「ビジュアル」により表現する手法を推奨する。

何事にも適正な守備範囲がある。確かに言語は論理的な思考を助けるが、それだけでは乗り越えられない局面は数多く存在する。視覚的な表現は、言語情報ではオミットされてしまう部分を上手に表現することが可能であり、「直感」を表現する手段として適している。言語に置換しがたい情報があり、かつ、より適切な表現が存在するのであれば、無理に言語にこだわることはない。そのままそっくり置き換えてしまうのが一番手っ取り早いだろう。

 

 

最後の最後は「言語」による伝達を

 

その一方で、「直感」と「論理」を繋ぐ媒体として、やはり「言語」を無視することはできない。自分の意見を説得力を持った状態で他者に伝達するためにも、結局最後は言葉の力を借りる必要が出てくる。

本書においても以下のように指摘されるところである。

 

センス・メイキングの最後のステップは、自分なりの解釈に「意味」を与えることだ。個人のイメージでとらえている世界を、他人と共有するには、やはり「言語化」が欠かせない。このとき参考になるのが、「画像」と「言葉」とを往復する思考法である。

 

しかし一方で、これを具体的なプランに落とし込んでいくときには、やはり「言葉」に頼らざるを得ない。視覚的な情報は、思考を「発散」させるうえでは非常に有効だが、議論を「収束」させていくときには、言語情報へと圧縮する手続きが必要になるのである。

 

拡散した情報を一気にギュッと圧縮するという意味では、やはり言葉に勝るものはない。とくに「名前をつける」という行為の意味は大きい。名前がついた瞬間、そのアイデアは「妄想」から「発想」へと姿を変え、この世界に存在をはじめるといってもいいだろう。

 

個人の内部で思考を広げる段階では、言葉の持つ「思考を限定する」という要素がデメリットとして働くのだが、それが他者への伝達の段階に至ると、逆にメリットとして働くようになる。自身の思考を敢えて限定的で共有可能なレベルまで落とし込むことで、齟齬を抑えた共有が可能となる、というところに言葉の面白さがあると言えるのかもしれない。

 

 

人を動かすための「ストーリー」を生み出す力

 

正解無きこれからの時代、大事になるのは「いかに他者を共感させ、こちらの思惑に巻き込むような魅力あるストーリーを提示できるか」ということだろう。

そのためにはまず、自分の中で「なんとなく」の状態にあるあやふやなビジョンを自分自身で正確に把握する必要があるし、それを適切に他者に伝達し、納得させることで周囲を効果的に巻き込んでいく力も大事になってくる。

そうした「ストーリー」を作る能力は是非とも国語の授業で養ってあげたい部分ではあるのだが、先述の通り、そのノウハウ自体が「感覚」による部分が大きいように感じられ、なかなか思うようにできていなかったという現状が確かにあった。言うならば「論理」の敗北である。

 

 

本書はそうした閉塞感を打破し、見通しを大きく広げてくれるのに一役買ってくれた一冊であったように思う。