ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

他者を説き伏せるのは、感情ではなく論理である

どうもあちこちを見ていると、「自己の感情」を前面に押し出して物事を都合の良いように推し進めようとする現場に遭遇する。周囲は理屈では同調しきれないものの、仕方が無くその人の感情に引きずられてしまう、という不毛なやり取りがそこでは繰り広げられている。

個人的なやりとりならいざ知らず、公的な会議などでこれをやられるとたまったものではない。いや、さらに言えば、教育の場でこんなことがまかり通ってしまうと、効果的な教育とは程遠いものになってしまう。教育への不信感にも繋がりかねない。

 

教師が高圧的に生徒を怒鳴りつけるのも、逆に同情を引いて生徒を動かそうとするのも何か違う。

そこに強かな計算と演技があれば話は別だが、大抵は自己本位であり、下手をすれば安易な自己陶酔の感すら見受けられる。

 

教師は、「学校」という特殊な世界の中で、ただでさえ強い権力を持ちがちである。

もしかしたら、そこで勘違いが起こり、何でも自分の言うことがまかり通ると感じてしまうのかもしれないけれど、実際はそれはまやかしに過ぎないと思う。

周囲が発展途上の子どもだからこそ、教師の側がしっかりと自己の感情をコントロールし、日頃から手本となるよう努めることで理路整然とコミュニケートする術を教えていかなければならない。個々人の資質や感じ方にもよるのだろうが、少なくとも私は、感情的に物事を進めようとする教師から何かを学んだ記憶は無い。

 

大人のやり取りだって似たようなものだ。

いや、大人になると少し事情が違ってきて、「論理的の皮を被った感情論」みたいなものが出現するからこれまた厄介である。一見論理的なことを言っているようであっても、その実自分の都合のいいことを押し付けようとする手合いがおり、その老練さはさすが大人だなと感じる一方で、そうした「なんちゃっての理屈」に結構引っ張られてしまう人がいるところに危機感を感じることもある。

誤解無きよう付け加えておくと、これは別に感情の横行が悪いと言っているのではない。「感情」の持つ力は果てしなく大きい。人間関係を形成する上ではとても大事なものであり、ぜひとも感情のコントロールは身につけておきたい技術である。ただ、そうした強大な力であるがゆえに、感情によって「理屈」が捻じ曲げられることが問題だと思うのだ。

 

 

大事なのは「感情」と「論理」をしっかりと自己認識して使いこなすことであり、逆に言えば他者の「感情」と「論理」を適切に見抜く力ということでもある。

教育の場において、さらには国語教育において、こうした力の育成に寄与する役割と責任は果てしなく大きいはずだ。