2学期が始まりまた生徒に宿題を課し始めるのだけれども、そろそろ宿題をなんとかしたい。
最近は寝ても覚めても宿題のことばかり考えている。恋かな?
「大人数に一律で」というスタイルの限界
クラス内での学力差が大きく、どこに照準を合わせても誰かしらに合わなくなってしまう。その内容が完全に身についている子にとっては時間の無駄にも等しい苦行となるし(反復することには意味があるため、完全に無駄とは言えないけれど)、一方身についていない子にとってはハードルが高くなってしまい、どれだけ頑張って取り組んだところでチンプンカンプンな状態は変わらずやる気を削ぎかねない。
結果、その宿題の求める適正な学力レベルであり、かつ真面目に取り組む意欲のある一部の子にとってしか意味がなくなってしまう。それ以外の子はいい加減に取り組んだり、他人の答えの丸写しをしたりと、「いかに宿題をしている風を装えるか」という姑息な取り組みが横行し始める。もうこうなっては非効率もいい所である。
作成・点検する側も楽じゃない
では、「個々のレベルに応じた宿題を作ればいい」となるわけだけれども、そんなことをしていては時間がいくらあっても足りない。全員共通の宿題を準備するだけでも結構な手間である。そして、それを全員に配布・回収し、一人一人の取り組み内容を細かく点検する作業も結構な骨が折れる。
最近は電子化も進んできているので、課題を作成した後はスキャンして保管するようにしている。また、解説などについても同様に電子化し、紙に印刷することなく配信をするようにしたため、若干負担は軽減されているように思う。ただ、毎年思うのだけれども、「このプリントは来年も使うかも」と思って取っておいたプリント類は、大半が使い回すことなく終わってしまう。目の前の生徒は毎年異なるため、それに合わせて宿題を出そうとするとどうしても前年とは微妙に内容を変えていかなければならない。やはり人間はAIとは違う。成長の仕方も千差万別である。
そして、やっぱり「どこに照準を合わせるか」という所に問題は帰ってくる。
そもそも本当に必要なのか?
根本的な部分を考えると、そもそも宿題とは「生徒の学習内容の定着」を図るためのいち手段であって、絶対に必要というわけではない。自分の人生経験や全体的な学校現場の傾向から漠然と「学力を上げるためには宿題を課さなければ」という思い込みがあったけれど、別にしなくたって構わないのである。「学習内容の定着」さえクリアできていれば、宿題なんか必要は無い。
最近は「いかにして宿題を出さずに済むか」に腐心しているのだけれども、これがなかなかに難しい。
「作成や点検が面倒くさい」という教師側だけの事情を優先し、何の手立ても打たないままに廃止してしまえば、結果として生徒の学力低下を招きかねない。
そもそも「宿題をやらせること」を前提とした授業計画が何か違うようにも思う。家ではもっと自分の主体性を生かして、自分自身の力で必要な勉強ができるような力を育ててやらねばならない。「規定時間外も誰かに縛られている 」状態に慣らすことは、過度の残業や仕事の持ち帰りを肯定する精神を誘発しかねない。
双方の得を目指す
やはりまずは授業そのものを改善するところから始めていく必要がある。その中で生徒の「自己学習の力」を養っていかねば、教師はいつまで経っても宿題に頼ってしまう癖は抜けないし、生徒も「与えられたことをただこなせばいい」という他力本願の姿勢から抜け出せない。
双方にとっての利となるうまい着地点を早く見いだしていきたいところ。でなければ多忙でこちらが潰されてしまう。結局はそこが大事。