高校現代文における定番教材「山月記」。正直な話、定番過ぎて少々授業をし飽きてきた感があります。
と、そんなわけで今年は少し導入の趣を変えてみることに。
【目次】
- 導入部分における「李徴」の人物像確認の大切さ
- 言語に喚起されて形成されたイメージを、似顔絵という言語以外の形でアウトプットする試み
- 授業の流れと、実施する上での注意点
- 作者(創造者)の側から作品を眺める目を養いたい
- まだまだ改善の余地あり
導入部分における「李徴」の人物像確認の大切さ
御存じの通り、「山月記」はその冒頭から高校生の度肝を抜くような漢文調のお堅い文体が繰り広げられ、その中で主人公李徴の人となりやその半生が語られていきます。
他者よりも遥かに抜きんでた学才だとか、それゆえの自尊心の高さだとか、他者を見下しがちな困った性格だとか、他者との交わりを避ける性情だとか……ともかくそうした李徴についての説明がこれでもかと言うほど詰め込まれています。
読めば読むほど、小説の導入部分としてはなかなかに秀逸な文章構成であることを実感する味わいのある文章。ただ、結構なボリュームのため、なるべくならばサラッと流して読み進めていきたいのですが、こうした李徴の人物像は後々の話の展開にも深くかかわってくるため、軽く流すことが難しい部分です。
かと言って、一から十までこちら側で板書をしながらうだうだと説明するのもなんだか違う。さてどうしたものか……。
言語に喚起されて形成されたイメージを、似顔絵という言語以外の形でアウトプットする試み
そんなこんなで小一時間思案した結果、生徒たち一人一人に、李徴のモンタージュ写真(似顔絵)を作成させることにしました。
可能であれば、パソコンのフリーソフトやiPadの専用アプリなんかを使って、よりリアリティのあるモンタージュ写真を作らせたかったのですが、自校のタブレット使用規定ではそこまですることが無理そうだったので断念。今回はiPadのブラウザ上でアバターを作成できるサービスを利用することにしました。
こうしたサービスのいいところは、あらかじめ準備された各種パーツを組み合わせるだけで、自分の頭の中にあるイメージを一つの画像として表現できてしまうところにあります。福笑いの要領ですね。
実は以前からこうした取り組みをしたいとは思っていたのですが、当時はタブレットなんて持っていないわけだし、かといって手描きの絵を描かせようにも、絵心には相当の個人差があるわけで、なかなか実現に至っていなかった現状があります。
そう考えると、技術革新というのは教育の可能性を広げる意味でも非常に歓迎すべきことです。これからもどんどんイノベーションが起こってほしいところ。
授業の流れと、実施する上での注意点
おおまかな手順は以下の通り。
①本文の描写に着目させ、記述内容に即した形で「李徴」という男の顔のイメージを持たせる。
②アバター作成サービスにて、そのイメージを実際のキャラクターとして作成させる。(詩作を断念する前と後でそれぞれ一つずつ作成)
③作成後はクラス間で画像を共有し、同一の文言から各々が受け取るイメージの異同について確認し、小説における「設定」の妙に気づかせる。
まずはひとつひとつの言葉に注目させる
何はともあれ、本文中の記述内容に即して似顔絵を作成できなければ意味はありません。
「こんな人物だったらいいのにな」とか、「こんな感じだろう」といったように、曖昧でいい加減な根拠で似顔絵を作成することの無いよう、まずは本文の記述内容を正確に捉えた上で、記述内容に基づいてイメージを組み立てることの大切さを強調しました。
表現における共通のコードを意識して顔のパーツを選ばせる
実際に顔のパーツを組み合わせる段階になった時には、「創作の世界における人物描写のセオリー」について意識をさせます。
私たちは何かを表現する際、常に何らかの「先入観」に支配されていると言えます。「○○ならば○○」という、実際には全く論理的な根拠を持ち得ぬものを、さも当然のことだと思い込んでしまう習性が人間には備わっているわけです。
一例を挙げるならば、「真面目=メガネ」「大阪弁=陽気な性格」といったところでしょうか。
これは科学的な裏付けは一切無いものの、創作物における人物造形においては非常に重要な意味を持っているわけで、小説を読解する上ではもちろんのこと、自分が作品を創作する際にも必要な考え方になってくるわけです。不特定多数の人間の意識を一つにまとめ上げるという点で行けば、こうしたイメージを自由自在・臨機応変に駆使する能力は今後の社会で必要になってくる能力といえるでしょう。
というわけで、今回の活動においても、そうした「セオリー」を意識した上での描写を心掛けるよう、生徒には前もって説明をしたところです。
パーツ選択の意図を言語化させ、共有する
そんなこんなで完成したアバターは画像として保存させ、クラス全体で共有を図ります。電子上のやりとりだと、この辺りの作業が非常にスムーズ。「classi」のように、大勢での情報共有が一瞬にできるプラットホームを持っているとなおよし。
他者との共有の場において重要なのは、「なぜ自分はこのパーツを選んだのか」という根拠を他人に説明できるか否か、です。本文における記述内容を元にして、自分なりの意図でもって似顔絵を作成している以上は、それを明確な言葉で表現できることが望まれます。授業の中に、互いの作品を見せあった上で意図を伝え合う時間を設けることでそのトレーニングを行いました。
今回の授業においては、「なんとなく」という理由は許さない、ということを前もって示しておいたので、生徒は本文の描写を何度も読みながら、それぞれ自分なりの根拠を持つことを念頭に置いて似顔絵作成の作業に取り組めていたように思います。
作者(創造者)の側から作品を眺める目を養いたい
昨年度末に「ライティング・ワークショップ」をさせて気付いたのですが、生徒が何の手がかりもない状態で一から創作物を作成する際には、「話の筋書きをどのように設定するのか」ということはもちろんのことですが、意外と「登場人物をどのように造形するのか」ということに苦労している生徒が結構多かったように思います。
今回の授業の狙いはまさにそこにありました。ただ漫然と文章を目で追っていただけでは気づきにくい、「作者がいかなる理由・手法でもって登場人物の造形を行っているのか」を知ってもらうことが大きな目標。こうしたイメージを駆使する能力は、今後社会の中で生きていく生徒たちにとって非常に大切になってくる能力だと思うのです。
初の試みということで、生徒の方も最初の内は戸惑っていたのは確かです。しかし、次第に慣れてきたのか互いに活発に意見を交わしはじめるようになり、最終的には作品の一言一句とにらめっこをしながら少しでも多くの情報を自分のイラストに反映させようと努力している姿が多くみられるようになってきました。これは結構良い傾向であると言えます。
まだまだ改善の余地あり
半ば思いつきで実施した活動でしたが、生徒の反応も上々で、思ったより可能性を感じる授業となりました。
まだまだ不勉強のために満足にいかなかった部分があるわけですが、それはこれから先ブラッシュアップしていけるように引き続き努力していきたいと思います。