ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

クリティカルシンキングを学ぼう ――「お客様は神様」なのか?

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現在、2年生の現代文にて「クリティカルシンキング」の授業をしています。

テキストにしているのは、『大人のための国語ゼミ』(野矢茂樹)。

 

大人のための国語ゼミ

大人のための国語ゼミ

 

 

「大人のため」と銘打っていますが、高校の授業にも十分活用できる良書です。

 

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【目次】

 

 

「何となく」分かってしまう恐ろしさ


生徒は物事を「何となく」でしか捉えていないし、「何となく」でしか表現できていない。そんな状態では、クリティカルシンキングなど夢のまた夢です。

人生の中で、クリティカルシンキングはある程度までは自然に身に付くものではあるけれども、それはあくまでも「ある程度」のレベル。いや、クリティカルシンキングに限らずに、国語を教えていて厄介に感じるのは、母国語というものは「何となく」理解できてしまうが故に往々にして自分自身の力量不足に気付けない、という現象が発生してしまっていることでしょう。

 

物事の本質を論理的に捉え、事実と意見の峻別をするスキルは一朝一夕では身につきません。一歩引いた目線で冷静に自他を眺め回すことができるだけの視線の自由移動と、時には対立意見に身を委ねる思考の柔軟さが求められるわけであり、これが結構難しいわけです。単純に言語化することのできないが故の、AIには容易に真似することのできない人間の思考の神髄をそこに垣間見ることができるわけです。

となれば、やはりどこかでしっかりと訓練を積まなければならない。

 

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日本人は「批判」が苦手

 

日本語はフィーリングによる部分が大きい「感性」の言語です。
明言を避け、相手の想像力に拠ったコミュニケーションを旨とし、他者と対立することを避けるきらいがあります。そんなわけで、日本語は元々「論理」とは相性が悪く、日本人の「議論下手」もそうした部分に端を発しているわけです。

 
クリティカルとは、「批判的」という意味であり、ただ相手の意見をぼんやりと受け入れるだけでは批判の域には達しえません。他者と良好なコミュニケーションを築くためには、単なる感情での言い合いにならないよう、しっかりと理屈を捕まえた上での建設的な議論が必要となってきます。こうした場面において、「批判」とは必ずしも悪い意味とは限りません。日本人は「批判」という言葉に対して悪いイメージを持ちすぎています。

「批判」とは、何も相手を攻撃することではありません。互いの意見を客観的に観察し、統合した上でより良好な状況を生み出すためには不可欠な考え方であると言えます。

 

大人であっても、この心構えのなっていない人がいかに多いことか。クリティカルシンキングができない、というよりは、むしろそのような思考法があるということにすら気付けていないようにも観察されます。
となると、やはり教育の大切さを感じるところ。個々人の成り行きに任せた成長を「信頼する」というのは一見聞こえはいいわけですが、その実、教育現場においては単なる楽観、あるいは放任と同義です。

 

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お客様は神様?

 

さて、上述の通り、『大人のための国語ゼミ』を使いながら授業をしているわけですが、本日は、

 

・「法律で禁じられていない」ということを根拠に歩きスマホを容認する人への適切な反論

・一夜漬けは短期記憶しか生み出さないため考査対策の勉強なんて無意味だ、という主張への適切な反論

・「個性に対する差別はおかしい」という根拠の下で「運動会の徒競走において順位をつけるべきではない」という意見への適切な反論

 

という内容を主に取り扱いました。

詳しい解説は『大人のための国語ゼミ』に当然譲るとして、このいずれにも共通する「前提の誤り」を見つける、ということについて考えてみようと思います。

 

最近は「クレーマー」と呼ばれる人たちが話題に挙がることが多くなってきました。

学校現場であれば「モンスターペアレント(モンペ)」になるわけですが、彼らの主張として有名なものは、「お客様は神様だ」というもの。私も大学生時代はバイトに明け暮れたわけですが、ごく稀にそうした考えの人と接することがありました。

 

でも、果たして本当にそう言い切って、客は店側に対して傲慢な態度を取ることを正当化してもよいものなのでしょうか?

 

そりゃ確かに、客あっての商売なわけですから、接客に力を入れるのは当然の成り行きであるわけです。でも、そもそも仕事というものは、「必要だけれども自分ではやりたくない面倒なこと」を他の誰かにしてもらう、という側面も持ち合わせているわけで、だからこそ労働者は受益者から対価を受け取るわけです。

 

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これすなわち、「労働」は前提として相互に支え合う構造を有しているわけで、本来であればそこに感謝こそすれ、一方的に主従関係のようなものを構築しようとすることはおかしいわけです。客の方が店を選ぶ権利があるのなら、店の方だって客を選ぶ権利があるはずですが、なぜかクレーマーは店が客を拒絶することを認めません。そこには論理の破綻が見られます。

 

 

感情に支配されない、確かなものの考え方を

 

 こんなことを言うと叩かれるかもしれませんが、「レディファースト」という考え方にも通ずる考え方を見て取ることができる気がします。

「お客様は神様」や「レディファースト」といった考え方は、あくまでも実際に行動に移す側が主体的に持つことを理想とする思想なわけであって、決して受け手側からの強制によってなされるものではありません。どうもこうした要求が大きな力を持っている現状からは、因果の捻じれを感じずにはいられません。そして、感情的、自己中心的な考え方しかできない者は、このおかしさになかなか気付けない。

 

教え子たちには、そんな大人には絶対になってほしくない。感情に支配されることなく、誰もが納得でき、だからこそ不毛な争いを生むことの無い、理に適った思考をしてほしい。

 

 

クリティカルシンキングを授業で扱う背景には、そんな思いも含まれていたりします。

主体的に社会を生き抜くための確かな力として、しっかりと身についてくれるといいのですが……。