ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

国語教科書における「定番教材」の存在と「指導書信仰」について

国語は、教員の個性が教授内容に強く影響する教科だと思います。

こう言うと「いや、それはどの教科も同じだ」という声が聞こえてきそうですし、そう、実際にその通りなのです。そこを否定するつもりはありません。
ですが、国語には「答えがひとつに定まらない」という「解釈」を扱うという特殊性から、より一層教員個々の個性が現れやすくなっている部分があります。特に、小説を扱う授業においてはそれが顕著であると言えるでしょう。

あらゆる解釈を可能とする、その許容力の高さにこそ文学の醍醐味はあります。そして、それをどういうアプローチで授業に組み込むのかが国語教師の腕の見せどころになります。


……なのですが、実際の現場にて、多様で魅力的な国語の授業が展開されているのか、というと、正直疑問を感じるところです。

私が一番つまらないと思う授業は、教師が「模範解答」なる文章を朱書きで板書し、生徒はそれをテストに向けて一言一句違わず暗記する。というスタイルのものです 。
そして実は、私が学校教育において受けてきた国語の授業は、例外なくこのスタイルでした。
おかげさまで、国語の授業についてはほとんど何も思い出せない、というのが正直なところです。


何故このような授業が国語教育の中で当たり前のように行われているのでしょうか。
世の中で「他人から解釈を押し付けられる」ことほど理不尽なことはありません。下手をすればそれだけで「文学離れ」を生み出しかねないほどの悪手と言えます。

にもかかわらず、多くの現場でその名残は残っているような気がするのです。

「定番」教材と、「定番」指導案


国語教科書には「定番」と呼ばれる教材が存在します。
分かりやすい例だと、1年生の『 羅生門』・2年生の『 山月記』『こころ』・3年生の『舞姫』といったところでしょうか。これはほぼ全ての教科書に採録されていることから「定番」の名を冠しています。

そんな「定番教材」が生み出されてきた経緯やその功罪(主に罪の部分)については 、『国語教科書の闇』(川島幸希)が詳しくて分かりやすいです。


国語教科書の闇 (新潮新書)

国語教科書の闇 (新潮新書)


問題なのは、これらの教材は生徒にとっては人生でたった一度の出会いであるのに対して、教師にしてみれば毎年同じ教材を扱うことになる、ということでしょう。

ルーティーンとなった仕事には、時として新しい工夫の入り込む余地が損なわれてしまいます。

「指導書信仰」の恐ろしさ

指導書なんてほとんど見ていない身としては、あの書物ほど厄介なものはないと思うのです。
あれこそ国語教育の本質を鈍らせている元凶だと思うのですが……。

ちなみに、指導書とは「どのように授業をすればよいのか」が、懇切丁寧に書かれている教師用の手引書です。そこには「この小説のこの部分は、このように解釈できる」といったことまでが事細かく書かれているわけです。
勘のいい読者の方ならば、この書物が冒頭に述べた「解釈はひとつに絞れない」という特性とは水と油のように、相容れないものであるということがお分かりいただけるでしょう。

「指導書」なるものに依存するようでは、国語教育の使命は果たすべくもありません。あんなのはただ、教授内容に少し迷った時の気休め程度に流し読みすればそれでよろしい。

指導書に頼りっきりになるようでは、「模範解答信仰」の生徒達と何も変わりません。いや、むしろ今の国語教育は、両者が癒着しているところに問題があると考えるべきか。

やはり一度、そんな旧態依然としたやり方をぶっ壊さねばなりません。
負の連鎖をどこかで断ち切らねば、国語教育に未来はないでしょう。

(続く)