ドーピング剤と言うか、もはや一種の麻薬である。
頼りすぎるとそのあとに待ち構えるのは身の破滅。であればこそ、用法・容量を守って正しく使いこなしたい。
そもそも仕事は「面倒」なもの
人間、生きていく以上、ある程度は負担がかかるのはやむなしである。特にそれが仕事となれば、その心身にのしかかってくる負荷は他のあらゆる活動の比ではない。
「自分の好きなことを仕事にする」は一見して理想的な状況だけれども、そんな理想だけでは社会は回らない。そもそも「仕事」というものは、誰も好んでやりたがらないこと、あるいは、やりたくとも相当な労力を要するためになかなかできないことを、その人の代わりに行うことで対価が発生するシステムである。
私は教師だが、「教育」という仕事だって、本質的には面倒くさいものである。
教育とはそもそも、「できない」「分からない」人を「できるよう」「分かるよう」にすることが求められているわけであり、そこには専門的な知識を駆使しての頭脳労働と、物理的・時間的な拘束を前提とした肉体労働が常に付きまとう。相手が子どもであれば、こちらの意に反する言動をとることも珍しくないわけで、ほぼ確実に意図した通りに仕事は進まない。
こんなのどう考えたって楽な仕事ではあるまい。教育なんてものは、本質的に面倒なものなのである。
苦難の中に、わずかばかりの「楽しみ」を
ただ、だからと言って嫌々日々の仕事に従事しているかというと、実はその限りではない。全体としてはそれはもう面倒くさいことの連続なわけだけれども、なんだかんだで教師という仕事は面白いし、楽しいと感じる瞬間は多い。
この「面倒臭いことを認めつつも、その中にわずかばかりの楽しみを見出す」状態こそが大切なのではないか、と最近は思うのである。それが長続きのコツであると言えるのではなかろうか。
教育界のブラックさが叫ばれて久しい。いや、教育に限らず、今の世はブラックばかりである。
中には毎日のように「やめたい」とつぶやく人もいるようだが、そんな人を見ると、いつも「一体何がそこまでこの人をその仕事に縛り付けているのだろう」と感じる。別に見下したり蔑んだりしているわけではなく、単純に疑問なのだ。
本当に嫌ならば、そしてその改善の見込みがなく、ただただ絶望の日々を送るくらいならば、さっさとやめてしまった方が身のためだ。仕事なんてものは、面倒なものではあるけれども、いやいやながら精神を削ってまで続けるものではない。
「ほんのわずかでも楽しむ余地」が見いだせないのなら、きっとその仕事は向いていなかったのだろうと、冷静に見切りをつけることも大切だ。
「楽しい」を前提にする危うさ
何事も主観によって大きく左右されるものである。
同程度の能力を備えた二人の人間に同一の仕事を与えた時、一方はそこに充実感を感じる一方で、他方は苦痛を感じてしまう、なんてことはざらである。そこにあるのはほんの少しの主観的な判断の差異。要は精神的な許容量の違いである。
「仕事を楽しめ!」などという考えを押し付けるつもりは毛頭無いし、その考えも間違っているだろう。そもそも、仕事なんてものは楽しむことを第一の目的にするものではあるまい。そんな考え方でいると、楽しい間は順調にいくのだろうが、ふとしたきっかけで「楽しくない」と感じた瞬間に、まるで夢から覚めたかのようにその仕事に対する熱が雲散霧消してしまいかねない。これは非常に危うい状態であると言える。
自分がどうするのかを決めるのは、他ならぬ「自分自身」
そんなわけで、仕事なんてそもそも楽しくとも何ともないわけで、そう割り切ってしまえば少し冷静に現状を見つめることができる。
そんな状態で、一度深呼吸をしてから改めて「わずかばかりの楽しみ」を見出しながら仕事をするのが精神衛生上もよろしいのではないだろうか。
要はベースに「面倒」と「楽しい」のどちらを置くかの違いである。繰り返すようだが、「楽しむな」とも「楽しめ」とも言うつもりはない。ただ、個人的には楽しみながら仕事をしたいと常々考えており、そのためにはどうすべきかということに関して無い知恵を絞る日々を送っている。
現状を嘆くことに注ぐエネルギーがあるのならば、そのエネルギーは別なことに注ぐべきだ。新天地を目指し、職を変えるのもいいだろう。体制を変えるための戦いに身を投じるのもアリだ。
ひとつ言えることは、その場にとどまり続け、苦しい思いをし続けることだけは絶対にゴメンだということである。
例えうまくいかなかったとしても、たとえ自分の首を絞める結果になったとしても、とにかく前に向かって動き続けたい。そのなかにほんのちょっぴり「楽しみ」が生まれれば御の字だ。
なんだかよく分からないけど、最近特にそう考えるようになった気がする。