ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

これから新しいことに挑戦してゆく、すべての人たちへ

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本日生徒に伝えたメッセージ。折角なのでご紹介。

 

 

 

今から挑戦をする君たちへ

 

これは、他の誰でもない、今これを見ている「あなた」へのメッセージだ。

この世でたった一人の、かけがえのない「あなた」に向けて、私は今から語りかけよう。

 

まずは、問おう。

 

主人公は、誰だ?

なぜ、学ぶのか?

失敗とは、何だ?

 

 

あなたは今、アイデンティティを見つける大事な瞬間を生きている。

自分と他人とを比べるのは、それによって自分を相対化するため。決して優劣をつけるためではない。多くの比較対象が存在して初めて、明確な自己が浮かび上がる。

 

他人との比較の何を恐れる必要がある?

自分のできることを見つけることができれば、それでいい。自分にできないことが存在することを知り、どうすればできるようになるのかを考えれば、それでいい。

 

目の前の数字や結果を評価するな。そこに至った自分の行動や思考を評価せよ。点数が低い。思うような結果が出せない。 そんなことは些事である。騙されてはいけない、そんなことであなたの価値は下がらない。

 

自分の行く手を阻むのは、いつだって自分自身の「諦めの気持ち」だ。どんな道を選んでも、どんな困難に直面しようとも、挑戦し続ける気持ちは絶対に忘れてはならない。

 

 

そもそも、失敗とは何だろう?

 

なぜ失敗を恐れる必要があるのだろう?

なぜ失敗によって自信を失う必要があるのだろう?

 

成長には個人差があるのは当たり前。昨日の優等生が明日の優等生とは限らない。スランプは、誰にだって絶対に訪れる。 

「失敗」とは、人生における一地点での単なる経験であって、その人の人格を生涯にわたって否定するものではない。「失敗=負け犬」では決してない。

 

 

-テキサス大アメフト部の 名コーチ、ダレル ロイヤルが夏休み帰省中の選手達に送った 手紙より-

 

”打ち負かされる事自体は、何も恥じるべき事ではない。 打ち負かされたまま、立ち上がろうとせずにいる事が恥じるべき事なのである。ここに、数多くの人生での敗北を経験しながらも、その敗北から這い上がる勇気を持ち続けた、偉大な男の歴史を紹介しよう。

 

1832年 失業

1832年 衆議院選、落選

1833年 事業倒産

1834年 衆議会議員当選

1835年 婚約者死去

1836年 神経衰弱

1838年 衆議会議長落選

1845年 下院議員指名投票、敗北

1846年 下院議員当選

1848年 下院議員再選失敗

1849年 国土庁調査官を拒否される

1854年 上院議員落選

1856年 副大統領指名投票敗北

1858年 上院議員、再度落選

 

……そして1860年 、アブラハム リンカーンは第十六代 アメリカ合衆国大統領に選出された。

諸君等も三軍でシーズンを迎え、六軍でシーズンを終えるかも知れない。或いは一軍で始まり、四軍で終わるかもしれない。諸君等が常に自分に問うべき事は、打ちのめされた後、自分は何をしようとしているのか?という事である。不平を言って自分を情けなく思うのか、それとも闘志を燃やし再び立ち向かって行くのか、という事である。今秋、フィールドでプレーする諸君等の誰もが、必ず一度や二度の屈辱を味わわされるだろう。今まで打ちのめされた事が無い選手など、存在した事は無い。ただし、一流の選手はあらゆる努力を払い速やかに立ち上がろうと努める、並の選手は少しばかり立ち上がるのが遅い、そして敗者はいつまでもグラウンドに横たわったままである。”

by ダレル ロイヤル

 

人間は無限に言い訳のできる生き物である。でも、失敗から目を逸らして、自分のプライドを守ることにどれだけの意味があるだろう? 何かのせいにしたその瞬間、その人の成長の余地は奪われてしまう。

 

イチローは、日米通算4000本安打という偉業を成し遂げた時、こう語った。

 

「4000安打には、僕の場合、8000回以上悔しい思いをしている。その悔しさと常に、向き合ってきた事実は誇れると思いますね」

「4000打つには3999本必要なわけで、4000本目もそれ以外も同じくらい大切」

 

 

失敗は、成功の糧にすればいい

 

成功は、その瞬間突然現れる現象ではない。それまでの着実な積み重ねによってのみ、目に見える形として現れる。 何も動かなかったことによる失敗ほど、意味のないものはないだろう。自分から挑戦したのなら、失敗してもそこには大いなる価値がある。

 

挑戦とはそもそも、困難へ立ち向かう無謀さと表裏一体である。であれば、そこには必ず失敗や挫折がつきまとう。だからこそ、成功した時の達成感は格別なのだ。生涯にわたって自分を支えてくれる、気持ちを奮わせてくれる、そんな自信がそこで生まれる。誰かに準備してもらった安易な道を辿るのは、挑戦でも何でもないし、そこには真の達成感は望むべくもない。

 

挑戦することを恐れるな。

失敗を恐れるな。

答えはいつだって、一歩踏み出したその先に待ち構えている。

 

将来あなたが「もうダメだ」と思ったとき、「ダメじゃないよ」と力をくれるのは、そうやって挑戦して、傷ついて、その傷の数だけ強く成長してきた過去の自分であるはずだ。

子どもはいつだって傷まみれだ。でも、気づけば傷はふさがって、その分大きく成長している。この世に、転ばずに強くなった奴は誰一人としていない。

 

 

さて、今の勉強への取り組みはどうだろう?

将来の進路に対する考え方、向き合い方はどうだろう?

 

与えられることだけを無難にこなして、それで満足か?

自分から動かなければ、自分で考えなければ、自分で切り拓くために挑戦しなければ、未来はいつまでたっても姿を現さない。そして、自分の人生で起こる結果については、誰のせいにもできない。すべてが自分の責任だ。

常に誰かに頼り続けなければ生きていけない。そんな大人には絶対になるな。自分のミスを、不遇を、周りの誰かのせいにする。そんな人間にだけはなってはいけない。

 

 

未知なる道へ、一歩を踏み出すことの大切さ

 

自分で自分の行き先を決めるのは、本当はとってもワクワクすることだ。どこに行くのか決めるのは、いつだって自分自身。他人の意見も大事だが、それはあくまで参考にしかならない。どんなものでも、他人から勧められたものは、なんだかピンと来ないものである。

 

もうそろそろ、自分の進むべき道を、自分のなすべきことを決めて「挑戦」しなければならない。

 

焦る必要はない。恐れる必要はどこにもない。

しかし、黙っていても一生答えは出てこない。もがき続けることをやめてはならない。自分のペースでいい。けれども、全力疾走で走り続けよう。「何かに全力で取り組んだ」、という経験は、結果の良し悪しに関わらず、絶対にこれからの人生を支える財産となる。

 

「できないこと」や「失敗すること」ではなく、「挑戦しないこと」を恐れよ。「できない理由」を考えるよりも、「どうすればできるようになるのか」を考えるほうがよっぽど有意義だ。

成功にせよ、失敗にせよ、すべての自分を受け入れて一歩一歩踏みしめることが大切だ。そしてその足跡を、他の誰でもない、かけがえのない自分自身がつけた足跡だと思って振り返ることでしか、人間は成長できない。

 

 

元サッカー日本代表監督であるイビチャ・オシムはこう言った。

 

「自分を信じられない人間を、どうして他人が信じられるだろうか」

「恐れることを、恐れるな。進め。」

 

 

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改めて問おう。

 

 

失敗とは、何だ?

 

 

なぜ、学ぶのか?

 

 

 

 

主人公は、君だ。