ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

「論破」に囚われていては、正確な評価を下せない

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現在、夏季補習を利用して、生徒の「伝える力」を伸ばすべく「読書感想文(マンガでもOK)」を書いてもらっている。

私自身、手探り状態な部分が大きく、事前にあらゆる状況を想定しながら慎重にすすめているのだけれども、実際には様々な課題が浮き彫りになってきている。

 

 

適切な評価ができていない

 

生徒の書いた文章に対して、ルーブリックを使っての相互評価をさせてみたのだけれども、どうも評価の仕方がヘタクソであるように感じた。

 

例えば、箇条書き状態の作品に対しては、「文章としての体をなしていない」という観点での評価を与えなければいけないはずなのに、その一つ上のレベルでの評価を与えてしまったり、どう見ても「面白い」や「凄い」といった単純な感想レベルの羅列に対して「個人の単純な感想に留まらず、読者の共感を得るような言葉選びがなされている」という観点をパスさせてしまったりと、何かと評価の感覚が甘いように見受けられる。

 

単純に評価軸を正確に掴む力に乏しく、精度が低いだけならばまだいい。それはこれから鍛えていくことができる。ただ、問題に感じるのは後述するように「評価する力はあるけれども、他者の目を気にするあまり手心を加えてしまう」という状況だ。いわゆる「『評価する自分』を評価されること」を恐れている状態にあるのでは、と感じられる生徒が意外と多いことに危機感を覚えている。

 

もちろん、原因は生徒の側だけにあるわけではないだろう。

ルーブリックの記述を十分に練りきれず抽象度が高くなってしまった結果、個々人の主観に左右されるような不十分なものになってしまっていたり、ルーブリックを使った評価についての事前の説明が不十分であったりと、こちら側の準備不足によるところも大きい。その辺りは要反省。

 

 

議論が苦手な日本人

 

日本人の美徳は「場の空気を読む」ことであり、そこには往々として「忖度」が発生する。結果、自分は「全く良くない」と思っていても、実際の評価は「そんなに良くない」レベルに抑えられてしまうことがままある。

 

いや、それはまだいいとして、根本的な問題として感じるのは「批判」や「揚げ足取り」といったことと「議論」の区別がついていない者が多いということだ。どうも、相手の不足している部分を指摘することを「悪口」とイコールで捉えている節がある。そのため、相手との関係が悪化することを恐れるあまり、マイルドな表現に逃げ込んでしまっている。

本来議論とは、双方の意見を擦りあわせる中で最適解を見出そうとする営みであるはずなのに、いつの間にか目的が「論破することで相手の意見を封殺する」といったところにすり替えられている現場をよく目にする。結果、自分の意に介さぬ意見は全て自分への攻撃だと勘違いしはじめ、最終的には他人の指摘を全く受け入れようとしない頭でっかちが誕生してしまう。

この考え方は非常に問題だ。そんなマインドセットでは、満足のいく議論など行えるはずがない。他人の意見を何のバイアスもかけずに素直に受け取ることは大切な事であり、逆に言えば発信する側も、議論の場においてはなるべく感情的な部分を持ち込まないように気を付けるべきだ。感情と感情をぶつけあい、互いの人格を否定する議論ほどレベルの低いものは無い。論理に従い、より建設的な意見を検討し合う場とするために、双方の意識を揃えることが不可欠となってくる。

 

 

「評価する力」を養う難しさ

 

今回はそんな生徒たちの「評価」についての課題を知ることができただけでも大きな収穫だったと思う。

そもそも対象を正確に捉えられていない場合もあるため、まずはそうした「基準に沿った客観的な観察眼」を身につけさせるところから始め、それ以外にも安心して評価を言い合える場の雰囲気や関係性を構築していくなど、もう少しあれこれと試していきたいところだ。