ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

負けて流した涙には、どれくらいの価値があるのか?

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本日はインターハイ県予選の引率。

残念ながら優勝することは叶わず。涙と共に3年生の高校での部活動は幕を閉じました。

 

どんな大会であろうと、最後の最後に土つかずの状態で笑って引退を迎えられるのは全国でたった1チームのみ。大会無敗の栄光を手にするのはそのチームだけであり、それ以外のチームはどこかでかならず「敗北」と言う名の苦汁を飲まされるわけです。

 

 

敗者の涙は、どんな境遇においても美しく光るもの?

 

高校生スポーツは、勝者はもちろんのこと、敗者にもスポットが当てられることが多い。最たる例は高校野球の甲子園であろうか。負けたチームが甲子園の土を涙ながらに集める様子が、いかにも美談めいてテレビ中継される。

夏の暑さにも負けずに過酷な練習をこなし、青春の全てを野球に捧げた高校球児の汗と涙の物語は、お茶の間の視聴者の心を打つことこの上なし。制作サイドには、恐らくそんな思惑があるのでしょう。

 

ただ、少し冷静になって考えてみると、それと時期を同じくして全国各地では受験生たちが受験に向けて各学校の補習を受講したり、予備校に通ったりと、球児たちに負けず劣らずの過酷なスケジュールで頑張っているのもまた事実。そして、そんな彼らにスポットが当てられることはほとんどなく、それどころか冬の大学受験においては不合格と言う名の辛酸を舐めた者の悔し涙ではなく、合格を勝ち取った者の嬉し涙しかクローズアップされない。

 

なぜスポーツの敗者の涙と、受験勉強の敗者の涙にここまでの差があるのか。

絶対数の差だと言われればそれまでだけれども、やはりそこには一種の先入観に支配された不平等さが立ち現われているのもまた事実と言えるでしょう。

 

 

先入観からの脱出を

 

我々が生きているこの現代社会は、あらゆる場面で歪んだバイアスに支配されていると言っても良いでしょう。テレビや新聞での報道、SNS上でのフォロワー達の発言、そのどれもが自分の物の見方・考え方に一種のフィルタをかけてしまい、正常な判断を鈍らせてしまうことがまま起こります。

そして、一番厄介なのは、そのことに気づかずに事を進めてしまうということが結構な頻度で起こっているということでしょう。何事も無批判の上で盲目的に信じ込んでしまう、という傾向は人間であれば誰しもが持っているはずですが、それが行き過ぎると自分の客観的な判断ができなくなるという困った事態に陥ってしまいます。

 

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そして、これは学校現場でもよく見られます。

校則にせよ業務の進め方にせよ、それが「素晴らしい」とされていた時代に引きずられ、「こうあるべき」という勝手な先入観が今なお学校の中ではまかり通っていたりします。それに付き合わされる生徒はたまったもんじゃありません。

 

 

印象操作に屈しない、論理的なものの見方を

 

本日は、試合に負けて泣いている生徒たちを見て、ふとそんなことを思いました。

別に彼らの涙を批判したいわけではありません。むしろ、彼らの涙には是非とも敬意を表したいぐらいです。

ただ、部活動に打ち込んできた彼らと同じように、毎日コツコツと自分のすべきことを頑張っている生徒も数多く存在するわけで、そんな彼らを評価すべき対象として拾い上げられていないというのは憂慮するところです。

学校教育のみならず、我々が生きていく上では、先入観に縛られることがあってはならないなと、そんなことを感じた一日でした。