本日のメインは学年の生徒を集めて喝を入れるお仕事。
期末考査まであとしばらく時間があるために、ややだらけ気味なこの時期。もっと大局的に物事を捉え、「テストのための勉強」から脱却させてやらねばならない。
そのためにも「自分が何をしたいのか」を自問自答させ、「今の自分はどうなのか」を振り返らせ、「これからどうしていかねばならないのか」を自分自身の頭で考えさせるよう仕向けていかなければならない。
ただ、口で言う程簡単なことではない。不特定多数の人間に対して自由自在にモチベーションを上げるだけの術があれば、とっくに教員なんてやめて宗教でも立ち上げているところだ。(もちろん冗談である。念のため。)
「素直でいい子」の落とし穴
勉強をしろと言って、素直にハイと言うことを聞いてくれる素直な子は伸びる。少なくともこの三年間は。ただ、それが大学入学以降も伸び続けるかと言われると微妙なところである。と言うのも、そうした生徒は「誰かからの指示を忠実にこなす」と言う点で優秀なわけであって、自分自身で判断しなければならない局面にめっぽう弱かったりする。警察犬タイプとでも言おうか、優秀な指導者の下について初めてその能力を発揮するタイプである。
勤務校の生徒の特長を俯瞰してみるに、概してこのような「警察犬」タイプが多いように観察される。
それは明らかにこちらで手厚くやりすぎている嫌いがあるからであり、簡単に言えば手取り足取り構い過ぎなのである。宿題にせよ補習にせよ、近隣のどの高校より多い自信がある。そうした面倒見の良さは一つのウリなのだろうが、このスタイルの弱点は、いざそうした先達者がいない局面に生徒が落陥った際に、自力で何とかできるだけの力を養うことができていない、というところにある。
毎日宿題を大量にさせるだけで満足していると、いつまでもずっと宿題に頼り続けなければいけない負のループに陥ってしまう。生徒は「とりあえず宿題をしていればそれでよい」といったような、正に典型的な「指示待ち人間」と化してしまう。
宿題をさせるのは結構だけれども、「どうやらせるのか」をしっかりと考え、生徒には「なぜこれをするのか」をしっかりと仕込んでおかないと、あっという間に「与えられた宿題だけやっていればそれで満足」といった偽りの充足感を与えるだけで終わってしまいかねない。
胸を張って人生に幕を下ろせるか
今日、全体の前で話をした際には、そうしたことを特に注意して生徒に伝えたつもりだ。
毎日勉強するのは決して教員のためではない。学校の名誉のためでも、保護者のためですらない。自分自身が大人になった時に胸を張って生活していける。そのための勉強のはずなのだ。
そこを勘違いさせるような教育が長い間この国では繰り広げられてきた。
その反省や時代の趨勢を踏まえ、いよいよ従来の在り方から脱却すべきという機運が高まっている今、教える側も細心の注意を払って話をしていかねばならない。
「生涯を通して学び続ける力」。生きている以上、ゴールテープを切ることは恐らくないのだろう。常に「新しい何か」に対応すべく学び続けるのがこれからの時代を生きる人間の背負う宿命なのだ。
「何のために学ぶのか?」という問。
極論すれば、今わの際に「良い人生だった」と満足してゴールテープを切り、安らかに逝けるために学ぶのだろう。
まだまだ先は長い。
それではみなさん、良い人生を。