本日は教科内外、様々な立場の先生と話す機会があったけれど、やはりみんな考えていることは同じなんだなということを再認識できて嬉しくなった。
これからの時代、「学校」はどうあるべきか。
「高校」と言う場は教師にとっては「生涯を尽くす場所」であるが、生徒にとっては「社会に出るまでのたったの三年間」。そのことを忘れてはなるまい。
「支配」と「依存」は表裏一体
教育の場においては、生徒を過度に支配下に置き、あれもこれもと手をかけるのは好ましい状況とは言えない。
たとえそれが良かれと思ってやっていることであっても、である。いや、むしろ結果だけを見ればそうした善意の押しつけほど始末の悪いものは無かったりする。
生徒を強力な支配下に置けば、確かにその場での管理は楽だ。いや、支配する側のみではない、むしろ受ける側にとっても支配は楽なものといえよう。自分の頭で考える必要なく、誰かに盲従すればよいという状況は、思いの外楽なものである。
ただ、それは「誰かの救いの手を待ち続ける人間の養成」にも繋がり、困難を自力で打破する能力と心構えを養う機会を奪い去ってしまうのもまた事実。そんな状態では、学校を卒業して社会の荒波に放り出された途端に、生徒たちは路頭に迷ってしまうだろう。
大きく環境が変わる年度始めに、そんな生徒をもう何人も見てきた。
彼らは一様に「誰かに支配される」ことに慣らされてきたために、その「支配者」がいなくなったことに対して困惑を感じている。悪いのは彼ら自身ではなく、彼らにそうした感覚を植え付けてしまった側である。
高校3年間、教師たちは生徒を自分の意に添うようにコントロールするだけではだめだ。この3年間は、教師が生徒を自分の動かしやすい型に当てはめることでなるべく平穏無事に過ごすためにあるわけではない。
高校を出た後、生徒にはおよそ80年の人生が待っているわけであり、高校での3年間などそうした長きにわたる人生をよりよく生きてゆく術を身につけるための助走期間に過ぎない。となれば我々教師はこの高校3年間で、彼らが自分自身の人生を1人で生き抜いていけるだけの力を授けてあげなければならない。
支配したくはない……けれど
そう考えれば、何かを強制させることは極力控え、なるべく生徒の主体性を尊重して学校生活を送らせてやりたいと考えるのが親心ならぬ教師心といえよう。
なるべくなら、宿題もやらせたくないし、学習記録も義務付けたくはない。
でも、ある程度はルールを定め、嫌がる生徒に強制させないといけないのもまた事実である。でなければ、ただただ好き勝手やりたい放題やるだけの「自由」と「自分勝手」を履き違えた生徒を生み出すこととなり、結果として社会への適応を阻害するという逆効果になってしまいかねない。
生徒を取り巻く環境は誘惑に満ち満ちている。
インターネットが最たる例であり、いかなるニーズにも応えうる非常に魅力的な空間がそこには広がっている。そして、タブレットやスマホといった一人一台が当たり前となったデバイスは、それらの世界への容易なアクセスを後押ししている。
「生徒の自主性に任せる」という耳触りの良い言葉に酔って少し油断すると、生徒たちは低きに流れていってしまい容易には元に帰ってこなくなる。現代社会のなんたる厄介な事か。
そんな中、どこまで生徒を守るためにこちらで手綱を握り、どこまで生徒を信じて支配を緩めるのか。そのバランスの取り方が非常に難しい。
結局はいつも感じるジレンマである。
これを打破するためできることはそう多くは無いだろう。
目の前の生徒たちをじっくり観察し、教師自身がPDCAをしっかりと回し、そしてそれを共有しながら最適解を探り続けていく。それしか方法はない。