ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

国語の授業で模範解答を丸暗記する、ということ

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中間考査まであと一週間。どんなテストを作ろうか思案中です。

個人的に、絶対に板書を暗記しただけの解答を作成させまいという意地にも似たポリシーがあります。

 

 

定型の模範解答を示さない

 

そもそも、私はきっちりとした板書計画を立てずに授業をします。新任の頃は一から十まで完璧に清書してまとめたノートを片手に授業をしていたのですが、それ以降はもう長いこと板書計画を立てません。(多忙のために板書ノートを丁寧に作成する暇が無い、というのもあるわけですが)

大まかな展開のみを考え、あとはなりゆき任せ。

発問に関する解説なども、必要なエッセンスを抑えた上で即興的に回答を作成して提示しています。同じ単元を複数クラスで扱う際にも、板書する文言は一定ではありません。なんなら、前時の授業内容を振り返る時ですら、前回と異なる文言でまとめたりしています。

 

本質的な部分を押さえてさえいれば、それをどんな言葉で表すのかということはそこまで重要ではない、というスタンス。

もちろん、混乱をきたさないために、生徒には折に触れてそのことをきっちりと説明します。よく使うのは「習字」と「書道」の例。

 

 

お手本の再現を目指す過程において型を覚える「習字」

 

熟達者の模範例を忠実に再現しようするという作業は、その全てが無意味であるわけではもちろんありません。

習字は手本となる書を隣に置きながら真似することで、止め・はね・払いを中心とした書の基本的な運筆や空白の取り方を学び取っていきます。そこで志されるのは、いかにお手本に忠実に従えるか、であり、そのトレーニングを重ねることでどんな文字にも応用可能な基本的な型をマスターしていきます。

 

そう考えると、国語の授業で教師の模範解答をノートに写し、テスト前にそれを一言一句暗記しようとすることが完全に無意味であるとは思えません。

 

特に文章作成の力が未熟である段階においては、骨子を的確に押さえた文章を真似ることによって学べることは多いはずです。これはまさに、「学ぶ」の語源である「真似ぶ」の域。幼い子どもは、周囲の大人たちの話す言葉を手本とし、真似をしながら言語運用能力を自然と身につけていきますが、そこには言語規則といったような小難しい理屈は介在せず、深く考えずにただただオウム返しをする、そんな段階を確かに経ています。

 

見よう見まねの段階において学べることもある、これは大事なことだと思うのです。一概に模範解答の丸暗記を否定するのも何か違う気がします。ある程度の丸暗記は成長過程のある段階においては必要不可欠。

もちろん、そうして学ぶことの意義を生徒に伝えておかなければ期待したような効果を上げることはできず、結局は機械的な丸暗記を誘発するだけに終わってしまう恐れもあります。

 

 

身につけた技術を駆使しながら自らの力で作品を作り上げる「書道」

 

模範を忠実に再現しようとする訓練によって培った技術をベースとして、それらを自在に組み合わせ、時には崩すなど、持てる力を総動員した結果、書道における作品が完成します。そこには状況や目的に応じた柔軟な対応力が求められ、誰かの書をそのままトレースすることは許されません。

最終的に、国語教育が目指す地点はここにあるはずです。

 

模範解答を丸暗記させる段階を意図的に許容しながらも、方向性としては生徒自身が自由自在に言語を駆使し、自らの思いを的確に表現する力を獲得できるように導いてゆく。そんな段階的・発展的な指導に耐えうるような授業をデザインしていかねばなりません。

 

高校生にもなって、いつまでも模範解答を丸写しさせているようでは到底その責務を果たせません。生徒がどの段階にいるのかを、国語教師はその都度正確に見極めていかなければなりません。

 

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さて、どんなテストを作ろうか

 

うーん、結局はこの問題に帰ってくる。

ある程度点数は取らせなければならないだろうし、かといって暗記で対応できる問題はあまり作りたくないし……。板挟みです。