前回に引き続き、京都大学の石井英真先生の講義の内容や、講義を受けて考えたことをまとめていきます。
【前回の記事はこちら】
講義の前半のテーマは「学校を改革するとはどういうことか?」「『よい学校』とはどのような学校か?」であったのに対し、後半は「今求められる学力と学びとは?」「どのような授業をめざすのか?」というテーマで進んでいきました。
【目次】
- 練習ばかりしていても、試合で上手にプレイはできない
- 学校の守備範囲とは
- 「回り道」ができるのが学校の強み
- 「どのレベルを目指すのか?」を明確に
- 「斜めの関係」を授業に取り入れる
- 表面上の言葉に囚われずに「根っこ」を捉える大切さ
- そんなこんなで大満足のセッションでした
練習ばかりしていても、試合で上手にプレイはできない
バスケットボールの例え話だったので、バスケ経験者の自分としてはピタッと嵌る説明でしたが、これはスポーツ全般に当てはまることでしょう。基礎基本の練習はもちろん大事なわけですが、これまでの学校教育では学校内で延々と練習に明け暮れるばかりで、肝心の「試合」をイメージできていませんでした。リアルな現場では時々刻々と状況は目まぐるしく変化するわけであり、「練習のための練習」しかしてこなかった人間には到底対処できるものではありません。
「真正の学習」が求められる背景にはこうした事情があります。
学校の守備範囲とは
とはいえ、学校と社会とはイコールではありません。
学校の守備範囲(学校だからこそできること、すべきこと)を明らかにしていくと、そこには「行きつ戻りつしながら学びを深めていくことができる」という大きな強みが見えてきます。
日本で長きにわたって続けられてきた雇用システムは変容の時を迎えています。社会の流動性も一層強まり、転職や起業は珍しいことではなくなりました。そんな背景が「教育改革」の必要性を高めた一因でもあるわけですが、ともあれ学校での教育が「職業準備教育」に陥ることは避ける必要があります。
目的を「受験に勝ち抜き、就職を有利にする」という部分に置いてしまうと、そこにはもはや社会において有用とされる「スキル」を磨くことのみに価値が置かれてしまい、「学ぶこと」の神髄に触れることなく学校を出て行くという好ましくない結果を招きます。
「回り道」ができるのが学校の強み
教室で学んだ内容を一度「本物の場」である社会で試すことによって初めて、学んだ「認識」や「概念」は重みや切実さを持つようになります。これは研究の場でも同じことで、過去の研究や作品に当たる中で先人の積み上げてきた知の厚さを知れば、自ずと自己の認識は深みを増してゆくことになります。そうした「文化の中で遊ぶ」経験はとても大事なことであり、生徒たちが自分の力を伸ばしていくためにも必要なステップとなります。
そんな学びを実現するためには、必ずしも最短距離を突き進む必要性は無く、むしろ寄り道をしながらその都度「学び」を味わっていくことも大切です。これは学校での学びだからこそできる営みであると言えるでしょう。
「どのレベルを目指すのか?」を明確に
これからの時代においては、一つのことを自分の力でやりきるだけの「責任引受能力」が大事になってくるのは疑いの余地はありません。時には失敗を重ねながら、それでもなお自分の力で何かをやり遂げる経験を積みながら養ってゆく力と言えるでしょう。
一方で、学んだ「知識」や「概念」を自分の頭の中で総動員しながら物事に取り組んでいく力も同じように大事であるわけですが、これまでの学校教育では知識を授けることばかりに注意が向いていたため、「それをどう使いこなすのか」までは鍛えてやることができていませんでした。
これからの学校には、「知っている・できる」をベースとし、そこから「わかる」に繋げ、最後は「使える」のレベルまでもっていくような学びをデザインすることが求められてきます。大事なのはこれらの三つの学力は単純な優劣関係で考えることができないということです。「どの段階が一番大事なのか」ではなく、「それぞれの段階をどのレベルで育てていくのか」を明確にした上で、三者の間を行きつ戻りつしながら鍛えることで、生徒の学習の質もより高いものとなるはずです。
「概念」という名のメガネでどのように社会を見るのかが分かっていなければ、どれだけ多くの「知識」を暗記しても、また、どれだけ本物の社会に身を置いて活動しても、それだけでは十分な学び足り得ません。
「斜めの関係」を授業に取り入れる
講義スタイルの一斉授業は、「教師への忖度を招く」と石井先生は指摘します。結局は教師が前もって教材研究を行ったプロセスによる結果を生徒に押し付けているだけであり、生徒はそれが「正しいもの」として教えられるままに覚えてしまいます。ゆえに忖度。これは単なる縦の関係です。
一方で、アクティブラーニングもややもすれば「仲間同士での馴れ合い」に陥り、そうなってしまうとそこにはもう生徒の学びは期待できなくなってしまいます。これはいわゆる横の関係。
これらは共に「教材」に向き合っていない状況であり、理想的な学習の形とは言い難いところです。授業において教師のすべきことは、生徒と「深い教材」とを出会わせることであり、教材を介した「深い学び」へと生徒を導くことにあります。
そこでは、これまでの一斉授業のスタイルで一方的に押し付けていた「教材を紐解いてゆくプロセス」や、それによって得られた「結果」を教師だけで独占するのではなく、むしろ生徒にそのプロセスを踏ませる必要が出てきます。そこで教師は「先行研究者」として生徒達と対等な立場にあるのであり、これまでには無かった斜めの関係性を獲得することとなります。
単純に「知識」の伝授で終わる「縦の関係」ではなく、同じ土俵で「教科の本質」を共に「深め合う」ような「斜めの関係」がこれからの時代の学校では必要になってくることでしょう。社会に直接役立つノウハウの伝授に終始するような、そんな「職業訓練」的な授業からの脱却を図る上で、この考え方は非常に示唆的です。
表面上の言葉に囚われずに「根っこ」を捉える大切さ
これまでの内容とも重なる部分はありますが、石井先生も最後に強調されていたので最後にもう一度。
「目的(目標)」と「手段」を峻別することはとても大切であり、そこには本質的な根っこの部分を正確に捉える力が求められます。
学習指導要領は常に改訂され続けていくわけですが、次回の改訂の際には、もはや「主体的」だとか「PDCA」だとか、そんな文言はすっかり影を潜め、時代に即した新たな言葉がそこにはひしめいているはずです。学習指導要領は常にそうして変わってきたわけですが、危機感を煽る意味でも「表面的な文言」は変わっていくのが当たり前です。
大事なのはそうした表面的な言葉に踊らされるのではなく、「今本当にすべきこと」という本質の部分を常に見極めながら、着実な授業改善をしていかねばなりません。そのためにもやはり、教員同士でビジョンを語り合っていく必要があるのでしょう。
そんなこんなで大満足のセッションでした
といった感じで、あっという間に過ぎていった九十分でした。
個人的に、授業改革はもちろんのこと、組織改革にもかねがね強い関心があったのですが、その両者を結びつけて考えようという発想は無く、別個の問題として捉えていたというのが正直なところです。しかし、このセッションではタイトルにもあるように、この両者を有機的に結び付けようとするところに発想の軸を置いており、講義を聴きながら目から鱗が落ちる思いでした。この講義を聴けただけでも田舎より遠路はるばる来た甲斐があると実感できる、そんな内容だったように思います。
あとは、ここで得た学びを机上の空論で済ませることなく、実際に今自分がいる職場で実行に移せるようにあれこれと頑張っていくだけです。
明日は中原淳先生の「キーノートセッション」の振り返りを行いたいと思います。
【溝上慎一先生によるオープニングセッションの振り返りはこちら】