ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

未来のマナビフェスのまとめや感想など 「②授業改善を軸にした学校づくり ―PDCAサイクルから探究する組織へ―」前半

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【オープニングセッションの振り返りはこちら】

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選択制であるセッションAは、京都大学の石井英真先生による「授業改善を軸にした学校づくり ―PDCAサイクルから探究する組織へ―」を選択しました。

これまたこんな機会でもなければ話を聞くこともできないような雲の上の方のため、興奮を抑えながら会場へ。

90分の殆どが石井先生の講義を聴くような時間でしたが、私自身がそうした「講義スタイル」世代でもあることもあり、全く苦は無く、むしろ内容の興味深さゆえに一種の心地よさすら感じる時間でした。十年ほど前に卒業した大学以来の本格的な講義だったため、久々に学ぶ面白さを思い出しました。90分では到底聴き足りません。

 

本当に多くの学びと気付きがあったので、前後編2回に分けてまとめていきたいと思います。

 

【目次】

 

 

エース教員を寄せ集めても「良い学校」にはならない

 

早速切れ味の鋭い指摘を入れてくるあたり、流石の一言。

今回の教育改革は、まさに制度そのものにメスを入れることを求められているわけで、どんな組織を作り上げていくのかが大切になってきます。教師個人レベルでの授業改善に終始していては、「持続可能な改革」とはなり得ません。マンパワーに頼りすぎていると、その人間がいなくなった途端に瓦解してしまう未来は目に見えています。

 

生徒に対し「主体的・対話的で深い学び」を促すのは、現代社会がそうした力を備えていなければ乗り越えられないような課題に満ち溢れたものであるから。そして、現に我々教育関係者も現在進行形で大きな課題に直面しています。各々の主体性を存分に発揮し、対話を重ねながら事に当たる必要のある難局に瀕しているわけで、決して他人事ではない状態。

そんな中、明確なビジョンを共有しながら十分なコミュニケーションを取り、「点の改善」ではなく「面の改善」を志向したカリキュラムマネジメントを遂行してゆく必要があります。

 

 

「評価」は最大の見せ場。それを念頭に置いて「評価」をデザインすべし

 

ともすると「授業」を華々しいものにしていくことばかりに心血を注ぎがちですが、やはり大事なのは「評価」の場をどのように設定するか、ということでしょう。

全ての改革は「生徒にどのような能力を備えさせたいのか」をベースに行う必要があるわけで、やれアクティブラーニングだとか、やれ生徒主体の活動だとか、そんな「手段」にばかり気を取られ過ぎると、肝心のコンピテンシーを図るための「評価」そのものが貧弱になってしまいかねません。

 

例えば、「PDCA」というサイクルに関しても、運用を誤れば単に効率主義に堕してしまい、生徒を教師の意に添うように従わせようという一種のリモートコントロールのための手段としてしまう、という状況に陥りがちです。「何のためにPDCAのサイクルを回させるのか」を念頭に置かねば、正当な評価には辿り着けません。

 

「評価」と「授業」を連動させながら、「評価のための評価」「授業のための授業」とならないような仕掛けを打っていく必要が出てきます。

 

 

「手段」にこだわりすぎず、「目標・目的」を常に問う必要性

 

例えばカリキュラム・マネジメントにせよ、学校の教育目標の新たな作成にせよ、それらは全て更にその一段上のレベルにある「目標」を達成するための手段であるはずです。学校全体での教育改革を行う際によくあるのが、「共通の目的を作る」ことそのものに主眼が置かれてしまうという現象。

あくまでも「目的(ねらい)」は「目標(ねがい)」に到達するためのもの。「ねらい」にゴールはあっても、「ねがい」は常に追求し続けるものであるためゴールはありません。

 

「教育目標などをまとめた一覧表は、チームでのビジョンの共有が済んだ時点で破棄してしまって構わない」という指摘は、一見かなり暴論のように思えるけれども、まさにその通りだなとハッとさせられました。

目指すのは、対話によってビジョンを掘り下げて相互に共有してゆくことであり、そうして完成した目標を最終的には「創造的実践」の部分にまで昇華させてゆく必要があるわけです。

 

 

流行の言葉に惑わされずに本質を捉えなければならない

 

 あらゆるカタカナ語や教育的な専門用語が溢れかえっている現在ですが、そこに振り回される状況は好ましくないと石井先生は指摘します。

確かに、現在教育現場は捉えようのないふわふわとした言葉に囲まれ、具体的には何をすべきなのかが見えにくくなっているような状況にあります。

 「主体的」という言葉一つとっても、それが意味する内容は多岐にわたる抽象的な表現であり、捉え方も個人差が出てくるために、教師間で常にそれを問い直し、共有をはかっていく必要があるわけです。

そうした共有を行った後に実際に授業を行い、その結果起こる生徒の変化を実感して初めて改革は進んでいきます。

 

セッションのタイトルである「授業改革を軸にした学校づくり」というのも、まさしくこうした在り方の提言として非常にしっくりとくるものでした。

 

 

やはり教師である以上は「授業ファースト」でありたい。しかし、昨今の教育現場をめぐるあらゆる状況の変化は最早、個々人が同時多発的に好き勝手な思想の元で授業をするということを許しません。学校全体で目指していく方向を確たるビジョンとして共有し、カリキュラムや授業の在り方を組織してゆく必要性があるわけです。

これまでぼんやりと考えていたこれからの学校の在り方に対し、大いなる根拠の元で力強い後押しをしてもらう、そんな講義でした。

 

 

 

こうした内容を踏まえ、後半では更に踏み込んだ形で「どのような授業を目指すのか」へとテーマが移っていきます。

そちらに関してはこちらの記事で。

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