さて、今週参加してきた「未来のマナビフェス2019 ―2030年の学びをデザインする―」について、数日に分けて整理していこうと思います。
オープニングセッションは溝上慎一先生による「みんなではぐくむ学びの未来」と題された講演。
強い憧憬の念を抱いていた溝上先生の生講演であることはもちろんのこと、ずっと前から楽しみにしていたフェスの幕開けとあって、否が応にもテンションが上がります。
【目次】
「オープニング」を冠するにふさわしいセッション
まずはアイスブレイクやアクティブラーニング(AL)の体験も兼ね、参加者同士の協働でワークを進めるところから開始。この「未来のマナビフェス」は、中学・高校の教員はもちろんのこと、大学生や大学職員、果てには企業の人事部や管理職と、あらゆる校種や業界の垣根を越えた人々が一堂に会するという、まさしく学びの「祭典」とも呼べるビッグイベント。勤務地も肩書も違う者同士での語り合いは少し畏縮するものの、「未来の学び」に対して同じ土俵で意見し合えるというこの状況がもう既に刺激的で、それだけでワクワクするところです。
正直なところ、いくら「学び」という共通項はあれど、これほどまでに種々雑多な人々が集まるとなるとその全員をターゲットにした話を組み立てるのは難しいだろうなという危惧があったのもまた確かなところ。しかし、いざ蓋を開けてみれば、最大公約数的ではあるわけですが、きっちりとAL周りについての基本的な説明がなされており、簡にして要を得た非常に分かりやすい解説は、まさしくALの第一人者としての面目躍如といったところでした。
教育改革の意識を呼び起こし、この2日間のフェスで目指すべき方向性を全体で共有できるような、ある種「準備運動」としてふさわしい内容だったように思います。
「アクティブラーニング」をめぐるあれこれ
※ところどころでALの概要について語られていたのですが、溝上先生の掲げるALの理念については先生の運営するウェブサイトにて網羅的にまとめてられているため、詳しくは割愛。今回はそうした部分の「おさらい」的な内容でした。
データに基づき、ALの必要性を見つめ直す
学習指導要領の改訂が「2030年」を一つのターゲットイヤーとしているということが、社会の変容や科学技術の進歩といった様々なデータを元に紹介されました。この辺りの事情はもう既に、この数年だけでも耳にタコができるほど喧伝されてきたわけですが、「なぜアクティブラーニングなのか」を考える上では避けては通れないところです。この現状認識を怠ると「ただこなすだけのAL」となりかねないわけで、やはりデータを正しく、丁寧に洗うことで為すべきことを明確化する作業は必要な一手となります。
もう流石に「アクティブラーニング」に対して「単に生徒が動き回る授業」といったような表面的な捉え方をするケースは少なくなってきていますが、それでもまだ結構な場面では認識を違えているような状況が散見されるのも確かなところです。特定の生徒のみが発言するだけの場となったり、ただなんとなく「やらされている」だけの授業となっていたりと、認識を改めねばならない部分はまだまだ多くあります。
そのためにもまずはデータを元に現状を正しく認識し、学校から仕事・社会への「トランジション(移行)」を視野に入れた上で生徒自身による適正な外化を促してゆく必要性がある。溝上先生はそう説きます。
学びの未来は「みんな」ではぐくんでいく
また、溝上先生が理事を務める桐蔭学園をはじめとして、各都道府県での具体的な教育改革実践の紹介もありました。いわゆる「カリキュラム・マネジメント」の話であり、個人的にはクリティカルな話題であるためかこういう話が一番焦燥感を刺激してきます。
どの事例にも言えることは、明確な計画のもとで「対話と共有」を適切に行うことができるだけの組織を作っているということ。そして、そこには強力なリーダーシップを発揮する者がおり、全体を巻き込みながら「みんな」で一丸となって実行していったということ。
これらの事例が示すように、研修や懇親の機会を充実させ、教員同士での対話を増やすことでまずは教員が外化を繰り返していくことはとても大切です。教員が変わらねば、絶対に生徒は変わりません。
勤務校のことに思いを馳せた時、やはり不足しているのはこの部分なんだよなぁということを思いつつ、でも現状一人であくせくとしているのが事実であるため、やはり「対話」と「共有」を学校全体で広めていかねばならないということを実感させられました。
このオープニングセッションのタイトルは「みんなではぐくむ学びの未来」。
まさに学校内外の「みんな」が一丸となって事に当たる必要があるのだということを考えずにはいられなくなる、そんな内容となっていました。
「パラダイムの転換」の流れに過度に惑わされてはいけない
教授パラダイムと学習パラダイムは決して二項対立の概念ではなく、教授パラダイムの枠をある程度は保持しつつも、その上で枠を超えた個性を追求すべきである、ということも説かれていました。
「学校から社会へ」というトランジションを考える上では、座学も決して軽視すべきでない、と溝上先生が冒頭で語っていたように、どちらか一方の「パラダイム」にのみ注力していては、思うような教育効果を挙げられなくなる時期が、遅かれ早かれやってくるはずです。
私が毎回授業を作る際に苦労するのが、「一体どこまでをこちら側から教え、一体どこまでを生徒の主体的な行動に繋げて行くのか」ということ。ややもすれば、時代の流行から「教授パラダイム」の軽視が起こってしまうわけですが、大事なのは基礎的な学力に立脚しながら自分自身の知識世界を広げていくことにあるわけです。
そう考えるとこれからの時代は、目の前にいる生徒と、彼らが出て行く社会とを見比べた上で「今、本当に大事なことは何なのか」ということについて各々の意見を擦りあわせる場を設けながら適正に処理していくスタンスが必須となると言ってよいでしょう。
人は「大化け」はしないが「成長」はする
最後に語られたのは「変化」「成長」「発達」を見分けることの大切さでした。
人はガラッと「変化」することは稀ですが、地道な「成長」や「発達」は絶えず起こっているはずです。目に見える劇的なものではないかもしれないけれども、これを信じ続け、最後まで責任を持って生徒の行く末を見届けられるかどうか。生徒が常に何らかの成長を続けられるよう、必要な手立てを授けられるかどうか。そんなことを考えると、やはり「学び」に携わる人間の持つ責任は果てしなく大きいように感じられます。
スタート地点で背中を押してくれる講演
と言った感じで、全体的には目新しさや派手さは無いけれども、様々な層のオーディエンスに向けて非常に丁寧に作られた、ずっしりと心に染み込むような強いメッセージ性を伴う講演だったように思います。
話を直に聞くのは初めてでしたが、やはり上手に話すなぁとありきたりな感想を抱きながらただただ90分聞き入っていました。
ともあれ、戸惑っていた背中を押してもらい、うまく助走がついた後に始まった「マナビフェス」。これ以降のセッションも刺激に満ちたものでしたが、その辺りはまた明日以降でまとめていきたいと思います。
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