いわゆる「Do not」と「Can not」の違い。これを混同している状況はあちこちで散見されます。
これらを意識の上で明確に使い分けなければ、意図した通りの結果を出すことが非常に難しくなってくる。常に問い続けたい。
【目次】
「夏休み」という名の休めない何か
さて、終業式も終え、学校は夏休みに突入しました。
ただ、何度も言うように夏休みだからと言って休めるとは限りません、教員はもちろん、生徒だって。
我々教師を待ち受けるのは、学期末の各種帳簿の帳尻合わせ作業に始まり、PTA関連の書類作成、それに加えて連日の夏季補習に、その後実施される三者面談。もはやフルコース。
「夏季補習」という名の根競べ
なんといっても夏季補習が大きい。時間割の巡り合わせによっては、下手をすると学期中よりも授業数が多くなり、「何なら夏休みの方が授業の負担がデカい」という摩訶不思議な現象が発生したりします。
生徒は折角の夏休み期間中に登校してきているわけですから、適当なことをしてお茶を濁すわけにもいきません。こちらも全霊を持って取り組む必要があるわけです。
ただ、学期中には体育や芸術といった科目で脳を休め、メリハリをつけながら主要五教科の授業に集中できていたのに対し、補習は基本的に五教科のみで構成されるため生徒の疲弊も早まっています。これは授業をする側にとっても結構つらい状況。
また、複数学年にまたがって現代文と古典を受け持っていると、「一日に空きコマが一時間のみ」みたいな状況はザラであり、午後の最終コマはむしろ自分の方が疲労困憊だったりします。授業中にこっそり居眠りできる生徒とは違い、こちらは手を抜くことはできないのがまたつらいところ。
何がきついって、脳の疲弊による思考回路の鈍化以上に、声を出すのがつらくなってくる声帯の疲弊。振り絞るように声を出して喉を酷使した結果、そこから炎症を誘発し、鼻風邪に繋がることも珍しくはありません。
「三者面談」という名の修行
さらに夏の補習期間は、そんな瀕死状態に追い打ちをかけるように放課後の三者面談が実施されるという苛烈さ。
ポカリスエットを隠し持ち、正に息も絶え絶えになりながら五時以降の面談をこなしていくわけですが、この過酷さはもはや修行のレベル。ただ、補習と同じくここで手を抜くことは悪手もいいところ。体にムチ打ちながら全身全霊で取り組まねばなりません。
せっかく直接足を運んでもらっているわけなので、「来た甲斐があった」と思ってもらえるような意義のある話を提供したいところです。となれば、事前の入念な準備は欠かせない。結果、忙しくなる。
「働き方改革」という名のまやかし
「働き方改革」が叫ばれる昨今。特に学校現場のブラックさは世間の注目も高いわけです。
勤務校も例に漏れず、その波は押し寄せてきているわけで、「夏休み期間に年休取得を!」と言われるわけですが、上述の通りそんな暇は正直無い。
「休め」と言われてすぐ休めるようならば、そもそもその人はいつでも休めるはずなのであって、本当に問題になっているのは「休みたくとも休めない」状況の抜本的解消であるはず。そしてその実現のためには、システムそのものの改革は避けられない。
数字上の年休を消化するだけならばできないことは無いが、それはタスクの総量を減らすことにはなっておらず、結局どこか別の場所でしわ寄せがくる。
年度末に死にそうになりながら残業する人に対し、「でもこの人は、夏休み期間に定められた日数年休を取得しているから大丈夫。はい、働き方改革大成功」となってしまうことを一番恐れている。
職場では以前、そうした旨の嘆願にも似た意見を上げたけれども、そんな末端の一意見はどこまで受け入れてもらえたのだろう。
(実際に提出した意見書の全文は以下の引用記事に掲載済)
本質を見誤ってはいけない。
「数字を見て人を見ず」になってしまっては、何のための改革なのか分からなくなってしまう。
これは学校教育も同じ。目に見える部分(パンフレットに掲載するような「結果」)のみに気を遣い過ぎて、肝心の中身が伴っていないという状況は結構あるわけだけれども、それはもはや教育ではないだろう。
対外的な「実績」のみに気を取られ過ぎて、肝心の「目の前の生徒の成長」を蔑にするような学校に未来は無い。
何事も、張子の虎にならぬよう気をつけていきたいものである。