ここの所ずっと悩み続けている古典における「知識」と「能力」の育成バランス。
正直まだ明確な答えは出ていない。けれど、とりあえず時間は止まってはくれないので何かしらやっていかなければならない。
やはり「受験」にビビってしまう
最近は生徒の基礎事項の定着が目に見えて悪く、かつ対外模試も迫っていることに焦りを感じてしまい、どちらかと言えば知識拡充の方向で舵を取り、講義スタイルメインで授業を進めている。
本当は、生徒の活動を主体にしながら、その中で古典の知識を身につけてくれればなぁと思うのだけれども、世の中そんなに甘くは無い。いつの時代も、基本的に生徒は単語を覚えたりだとか、文法を覚えたりだとか、そんな七面倒臭い作業は大嫌いなのである。それがたとえ古文好きの生徒であってもそうは変わらないはずだ。
特にこのご時世、「単語なんてスマホで調べれば一発じゃね?」なわけである。ごもっとも。何でも知っている物知り長老がちやほやされていたのは遥か昔のお話だ。実用性を肌で感じやすい英語とは異なり、千年前の日本語の文法や数千年前の漢文句法を知っていたからと言って、それらの知識が直接何かの役に立つことはほぼ無い。そんな中、わざわざ時間と労力を割いて勉強する気になどならないのは至極まっとうな感覚であるといえよう。
少しでも、意味あるものへ
そんなこんなで講義メインの授業を展開し、大学受験を見据えながらなるべく効率よく知識を吸収してもらうよう授業を組み立てているわけだが、これは何も完全に降伏したわけではない。面従腹背、とは言わないまでも、やはり悪あがきをせずにはいられない。
例えば夏目漱石が「I Love You」を「月が綺麗ですね」と訳したといわれる逸話をダシにして、日本人が自身の機微を敢えて情景に託して回りくどく表現しようとした文化について考えさせながら和歌の解釈に繋げて行ったりとか、単語は必ず語源から入ることで、現代にも一貫して残っている日本人的感覚・現代では失われてしまった感覚について浮き彫りにし、こうした言葉の変遷の背景に何があるのかを考えさせたりだとか、漢文の構造を崩さねば日本語訳できなかったという事実から窺い知ることのできる両国の国民性を問うてみたりと、ともかくただ機械的に暗記すればよいという感覚に陥らぬよう、手を変え品を変え、小手先の知識やハッタリを総動員しながら少しでも生徒の脳みそがアクティブになってくれることを願い話をするよう心掛けている。
効果の程は分からないし、ただの雑学披露で終わってしまっている可能性も否めない。
それでも、やっていくしかない。
やっていく中で何かしら光明を見出していくことができるよう、これからも出せる手は出すし、出せる足もとにかく出していく。なんとも泥臭いけれど、新入試制度の先行きがはっきりしていない現段階ではそれしかないのかなぁ。