ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

「書けない」という悩みと、「書きすぎてしまう」という悩み

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【目次】

 

 

世には圧倒的に「書けない」という悩みが多い

 

学校の授業に限らず、世間には「文章が書けない」という悩みが散見される。
課題作文でも、ブログでも、レポートでも、論文でも、報告書でも……、好むと好まざるとに関わらず、私たちの生活は「書く」という行為で溢れかえっている。

 

そうした「書けない」派の様子を観察していると、一口に「書けない」と言ってもそのバリエーションは多岐に渡っているように感じる。

 

書けない理由その①「単純に構想が頭に浮かんでいない」


要は他者に対して伝えたい「何か」が無い状態。中心にあるべき最も大事な「核」が抜け落ちている状態であると言える。読書感想文に代表される、「書くことを強制される文章」が書けないのは大抵がこのパターンに陥っていると言えるだろう。

文章を書くには、内発的な動機が不可欠である。しかし、「課題」という外発的な動機によって書き始めた文章には、そうした「核」が欠落している場合が多いのである。

 

「文章の書き方」を指南する書籍は数多く存在しているが、その大半は「書く技術」に焦点を合わせている。車のパーツを高級なものに取り換えるなどして走行性能を上げたところで、肝心のガソリンが無ければその車は一ミリたりとも進むことはない。ここでいうガソリンが、「書きたいこと」になるだろうか。文章記述のテクニックをいくら教え込んでも根本的な解決にはなり得ない。

 

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こうした「無理矢理書かせる」という指導は、これまでの教育で無反省に繰り返されてきた。我々国語教師は、そうした過ちを真摯に受け止めた上で、「書く力」の養成方法について、今後更なる改革を推し進めていく必要に迫られている。

 

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さて、この手の悩みへの対処法は至ってシンプル。

「書きたいことが無いのならば書かなければいい」。それだけだ。

 

 

とはいうものの、厄介なことに、「書きたくないのに書かなければならない文章」というものが存在する。学生であれば課題レポート、大人であれば報告書などが挙げられるだろうか。


ここまでくると、もはや「書く力」というよりは「発想力」の問題になってくる。

これは国語科だけでは対処が難しいところではある。何かうまい指導法はないものか……。

 


書けない理由その②「構想はあるけど、それをどういう言葉で伝えるかが分からない」

 

①で確認したような、「書きたいこと(伝えたいこと)が皆無である」という人間は実はそんなに多くない。人間は関係性の中に生きる生き物であり、現代社会は他者への伝達行為を前提として成立している。誰だって、何かしら伝えたい「主張」を内に秘めているはずなのだ。

 

そんな中で「書けない」という悩みを抱えるのは、

 

a、他人に読まれることを恥ずかしく思っているパターン

b、完璧を追い求めすぎているパターン

 

のいずれかであるだろう。

一応二つに分けたけれども、厳密に言えばどちらも根本は同じであると思う。冷酷な分析をするならば、どちらも「自意識過剰」になっている状態にあると考えられる。

言葉の中で生きている以上、「何も書けない」なんてことはありえない。大抵は「かくあるべし」という「正解」の幻想に囚われている状態にある。下手くそでも何でもいいから、まずは踏み出すことが大切なのだが、その勇気が出ずにいる。

実際に、現在授業において実施している「ライティングワークショップ」においても、「書けない」という悩みを抱える生徒は、ほぼ全員がこれらのパターンである。


この状態への対策も、至ってシンプル。「自信をつけること」、それに尽きる。
自信の無さはひとえに経験の不足によるわけであり、ひたすらに経験を積むことが最も単純にして効果的な対処法であると言える。
そのために学校の教育で必要なのは、「ノウハウを教える」ことと、「安心して失敗できる環境を整えてあげる」ことである。

 

ビジネスシーンなどでは、ある程度のフォーマットに従って書くことも大事になる。そう考えると、「自由に書く力」と同時に、「型に沿って書く力」も確かに必要なのだろう。ということは、教員の顔色をうかがうような、いわゆる「模範的」な文章を書く力も、結構必要なスキルではないかと思ったりもするのだが、いかがだろうか。

文章の読み手を想定し、そこに刺さりやすい効果的な表現を考える力。それだって大切な能力の一つであるように思えるのである。

学校の授業としてどこまでを教え込むのか。これは、なかなかに難しい問題だ。

 

 

 

世の中には「ついつい書きすぎてしまう」という悩みも存在する

 

一方で、生徒の様子を見ていると「書きすぎてしまい困っている」という悩みも少なからず存在していることが分かる。

 

現代文のテストにおける「記述問題」はもちろんのこと、入試における「小論文」や、推薦入試やAO入試における「志望理由書」などには、大抵字数制限が設けられているものである。大抵は「評価する側」の都合によるものだが、我々の記述には字数制限がつきものである。それを一字でもオーバーすると採点対象外となってしまうため、「書きすぎない」という力も必要になってくるだろう。

 

たとえ字数の制限が無かったとしても、あまりにも長い文章は読み手の意欲低下を誘引し、「他者への伝達」という本来の目的を達成する妨げとなりかねない。「適切な文章量」を意識することは結構大切なことである。

 

ここでは、思いのままに筆を走らせるという行為を自制する力が必要となる。いわゆる「要約力」ということになろうか。書きたいことをコントロールしながら、時として「捨てる」ことも大切となってくる。これはもう、「技術」というよりは、「勇気」の問題に帰結する。

 

 

どちらかと言えば、私自身もこちらの悩みを抱えている。

どうしても「書きすぎてしまう」わけであり、ここ最近のブログの内容を見れば、それは容易にご理解いただけることと思う。明らかに初期の頃に比べ、文章量は増加している。


私は大学四年生で卒論を書いたわけだが、所属するゼミの教官の方針が「原稿用紙100枚分」つまりは「4万字」を目安に書くように、とのことだったのだが、何を思ったのか私は最終的に7万字の超大作を書き上げてしまい、指導教官に若干引かれてしまったのは記憶に新しい。なんだろう、書きたいことがありすぎるのも考えものである。

 

書き過ぎることは、結果として読み手への負担を増加させることとなってしまう。このブログだって、一体どれほどの読者の方が最後まで読んでくれているのだろうかと、我ながら疑問に感じてしまうほどだ。

 

 

思い切って削る勇気

 

こうした悩みを解決するためには、「削る力」を養うことが必要になってくるだろう。

 

そもそも、「教育」という行為は「削る」こととセットである。

「1教えるためには10学ぶ必要がある。しかし、10全てを教えようとしてはならない」とは、教育界の金科玉条。捨てる勇気が無ければ、授業は教師の自己満足で終わってしまう。



「長口上はあくびの種」ともいう。結婚式や宴会のスピーチなどは、言いたいことをなるべく簡潔にまとめ、要点を捉えて話すことが求められる。(酒宴ではどうせ誰も聞いていないのだ)

キャリアを積むほど話が冗長になるのはこの法則が働いているからだろう。経験の豊かさゆえにどうしてもそれを語りたくなってしまうのは人間の性であるわけだが、受け手のことを考えれば「あれもこれも」と欲張ることは控えなければならない。

 

 

とか何とか言っていたら、もうすでに約3000字に達しているわけですよ。相変わらず長すぎる。

毎度毎度文章が長すぎて申し訳ないです。質を保ったまま、読み手への負担はなるべく低くなるような、そんな文章をこれからは心掛けていきます。