なぜ古典を学ぶ?
実を言うと、私は学生の頃から古典は好きではありませんでした。
なぜわざわざ昔の単語を覚えなければならないのか。
また、漢文に至ってはそもそも日本語ですらないわけで、なぜそれを学ぶ必要があるのか。
そんな不満が常に頭の中にありつつも、「でも大学に進学するためには必要だしな……」と自分を誤魔化しながら勉強していた記憶があります。
この時の私は、言語を文化と関連付けて学ぶ、という意識がほぼ皆無で、「現在」や「未来」との繋がりが全く見えていない状態でした。
いわば「古典のための古典」。 私が学校で学んできた古典は、教科書の中だけで閉じられたものだったわけです。
「ヤバい」はとても日本人らしい表現?
さて、タイトルの件ですが、個人的な見解としては。
「あないみじ。」
という表現が実にしっくりくるのでは、と考えているのですがいかがでしょう?
イントネーションを現代風にすると「あないみじ~」みたいな感じでしょうか。IKKO的な?
「あな」は感動詞。物事に対する感嘆の情を表します。
「いみじ」は形容詞ですが、これは良くも悪くも「程度の甚だしさ」を表します。
この「良くも悪くも」という所がなかなか面白いところ。
突き抜け具合が「いい意味で」なのか「悪い意味で」なのかによって、ニュアンスが異なります。いい意味ならば「すばらしい」、悪い意味ならば「ひどい」、といったところでしょうか。
よって、受け手は文脈に応じて正負の判断を適切に行わなければなりません。
(ちなみに、「ゆゆし」なども似たような要素を備えています)
高校生は、こうした「一見して両極端となっているような意味を持つ単語」を嫌います。
曰く、「なぜこんな紛らわしい使い方をするのか」。
ご意見はごもっとも。かつての私もそう思っていました。
ただ、これって別に日本語では珍しいことではありません。
現代人だって、本来は負のニュアンスしかなかった「ヤバい」という単語を、気付けば良し悪しどちらのパターンでも使うようになっています。そして、現代の高校生はその「ヤバい」が正負どちらのニュアンスなのかを無意識の上で完璧に使い分けることができています。
おそらく現代人の会話を1000年後の日本人が読んだ時、我々と同じような感想を持つでしょう。「この時代の日本人はなんて分かりづらい言葉遣いをしているのだ」と。
そして、その時代の日本人も、きっと同じような言葉の運用をしているはずなのです。
そう思うと、なんだか壮大な感じがしてきます。
生かすも殺すも……
言葉は生き物です、時代によって・社会によって・関係によって……、様々に姿を変えながら適応するだけの対応力を備えています。
そのため、言葉の変化には必然性があり、背景にある諸事情と明確な因果によって結ぶことができます。
そこに気を付けないと、「言葉にもてあそばれてしまう」という事態も起こりかねません。あくまでも手綱はこちらで握っておきたいところ。
どれだけ時代が変わっても、変わらず日本人の中にある物事の捉え方や感じ方。
あるいは、時代のふるいにかけられて、気付けばどこかで失われてしまったもの。
言葉を調べていけば、こうしたことが見えてきます。
そして、それを知ることは、今この瞬間を生きる私たちが自分自身のことをもっとよく知る上で必要なことだと思うのです。
以前も触れましたが、アイデンティティの確立には、他者との相対化が不可欠です。
「今」を正確に捉えるために、「過去」を知る。そしてそれを「未来」へ繋いでゆく。
古典を学ぶ意義は、こういうところにあるのではないかと思うのです。
言葉の変化を逆手にとった例
また、「時代による言葉の変化」考えていていつも思い出すのは、名作映画「バック・トゥ・ザ・フューチャー」の一幕。
過去へタイムスリップした主人公マーティが、その時代の親友ドクと次のような会話を交わします。
マーティ「ヘビーだぜ」
ドク「未来ではそんなに物が重いのか?」
マーティは事態の深刻さを「ヘビー」と表現するのですが、これは一種のスラング(俗語)であり、まだそのような言い回しが生まれていない過去のドクにはそれが伝わらない。 だからドクは、「ヘビー」という言葉を「重量がある」という意味でしか考えられず、ちぐはぐな会話になってしまう。
同じ言葉でも、時代によってそのニュアンスが変質しており、正確に伝わっていないのです。この二人のやりとりの面白さはそこにあるわけです。
青年よ、古典を学べ
以上、あれこれと述べてみましたが、古典に関しては大学で少しかじっただけでそこまで専門的に研究したわけではないので、的外れなことを言っていたかもしれません。
専門に研究されている方、どうぞ鼻で笑ってください。
ただ、十年間毎年欠かさず古典を教えてきた経験から言えば、高校生にはこうした身近な切り口から興味を持ってもらうのもアリなのかなと思います。
すくなくとも、高校生の時の私のように「なぜ学ぶのか」が全く分からない生徒を増やすことの無いよう、私もこれからもっと勉強していきたいと思います。