さぁ、記念すべき連続更新20日目。
何を隠そう、私はマンガが大好きです。この年になってもまだ相変わらず少年漫画を読み続けています。何なら死ぬまで読み続けたい。
心は永遠の17歳。そんな人生でありたいと思いながらも、最近目に見えて増えてきた抜け毛に人生のはかなさを感じる今日この頃。
マンガのおかげで国語教師になれた
そんな私ですが、昔から同じ漫画を何度も繰り返して読む傾向にあります。
気に入った漫画は穴が空くほど読み返すため、セリフや構図はほぼすべて覚えているほどです。
マンガって何回読み直しても新しい発見があるんですよね。小学校の時にはコロコロコミック、中学生になってからは大学生まで少年ジャンプを欠かさずに買っていましたが、次の号を買うまで何十回でも読み返していました。でも、飽きることなく、何度目であっても楽しく読むことができていたのを今でも鮮明に覚えています。
そんなこんなで現在は国語の教師ですが、正直な話、国語的な力は小説よりもマンガやアニメ、ゲームの影響がかなり大きいように感じます。なんなら国語の授業よりもはるかに価値があったと思います。
昔から漢字の読み書きは抜群にできた記憶がありますが、それはマンガが全ての漢字にルビを振ってくれているからでした。
読者に伝わりやすくするための言葉選びやストーリー展開に凝らされた工夫。ある状況をどのような目線から映し出すのかという構図の妙。これは小説読解と重なる部分は多く、ここで得た経験は教壇に立った今でも役立っています。
その他にも、こじゃれた言い回しについても、マンガから学んだ部分はかなり大きいように感じます。そうして得た言葉の選び取り方や、気の利いた言い回しの使い分け方などは、このブログの端々にも色濃く現れているはずです。
その他にも、「友情」「努力」「勝利」の素晴らしさや、目的に向かって諦めずに粘り強く食らいつくことの大切さなど、マンガが私の人生にもたらしてくれた多くの財産は数え切れないほどです。
こんな大事なこと、学校では全く教わりませんでした。
なぜ漫画は教育現場で毛嫌いされるのか
そんな人生を歩んできた私ですから、生徒として、あるいは教師として学校に携わる中でショックだったことは、とにかく「学校」というのはマンガが嫌いなんだな、ということでした。
そして、なぜマンガがダメなのかということに対する明確な根拠を誰も示せないということが、ずっと不思議でなりませんでした。
「学力が下がる」というけれども、それは何の裏付けもなく、事実私の周りにはマンガをたくさん読みながらも優勝な成績を誇っていた人がたくさんいました。
そもそも、そんな考え方が出てくる時点で、一種の思考停止が起こっている状態だと言えるでしょう。
「マンガから何かを学ぶ」という視点が、ごっそりと抜け落ちているわけです。
発想を転換すべき時代
「あんたはまたゲームばっかりして! 頭が悪くなるわよ! もっと勉強しなさい!」
これに対する解答は、一世を風靡した「脳を鍛える脳トレ」シリーズでした。
「あんたはまたスマホばっかり弄って! 頭が悪くなるわよ! もっと勉強しなさい!」
こっちに対する解答は、彗星の如く現れた「スタディサプリ」に代表されるweb学習サービスなわけです。
これらは正に「逆転の発想」といえるでしょう。(あるいは見事な止揚)
いずれも社会に受け入れられ、大ヒットを記録したことからもこれらの戦略は間違っていなかったということが分かります。
※ただ、逆に「これらの新興勢力が学力の保証に本当に寄与したのか」という明確なデータも存在しない以上、手放しでほめちぎることはできません。導入するだけではあまり意味がないのもまた事実であり、「いかにして生徒にそれらのサービスを活用させるか」という部分が我々学校の腕の見せどころです。そこは注意が必要。
これからの学校改革を考えた時には、このような対立構造を根本から覆すような柔軟な視点が不可欠になってくるでしょう。
「マンガはダメ」ではなく、「マンガから何を学ぶことができるのか」。この発想が大事。スマホだって、SNSだって、みんな一緒です。
もちろん、譲れない部分があることは重々承知していますが、それでも今の教育現場は頭が固い部分が散見されます。
生徒に根拠を示せるのか?
学校現場における、「禁止事項」の中には、根拠が非常に怪しいものが生き残り続けています。
何かを規則で禁止するに際して、それが理不尽なやりかたでは何の教育にもなりません。
そして非常にやっかいなことに、規制する側の我々が、その意義について十分に議論せず、前例踏襲を断ち切れずにいるということです。
「なぜそこまでするのか?」に対して、明確な根拠を伝えられない。こんなのは教育とは言えません。
同じ禁止でも、思考停止の上で頭ごなしにシャットアウトするよりは、「確かにマンガは学びの種になる可能性を秘めている。それは理解出来る。けれど今は駄目だ。あらゆる状況から判断した結果、やむなく断念することを理解してほしい」といわれた方が、生徒もまだ納得できるというものです。
そもそも人間(特に子ども)は、「ダメ」って言われたことに限ってやりたくなっちゃうものなのです。
この世で学べない物など存在しない
同じものを見て、同じように行動していても、なぜか学びの質や成長の度合いには差がついていきます。
これは各々のマインドセットの相違によるところのものが大きい。
面白そうだと思って買った本が、どうしようもなくつまらない時、「損をした、時間とお金の無駄だった」と考えて後悔すると、そこには何の学びも発生しません。
同じ状況でも、「自分には合わなかったけれど、こういう考えもあるのか」と考え、「自分とは馴染まないものが存在することが知れた」「それが自分の考え方なんだな」という気付きを獲得すること。
それだって立派な学びであるはずです。
アイデンティティの確立のためには、自分自身を相対化することはとても重要なことであり、そのためにはあらゆる比較対象が存在しなければなりません。
そして、その比較対象は多ければ多いほど、自分の位置づけはより一層正確なものとなり、深い部分での自己省察を可能としてくれます。
単独の点だけでは何の図形も描けません。点は二つあるから直線を引けるわけです。
三つ以上あるから、複雑な図形を正確に描けるのです。
これから目指すべき方向
教育の目的の一つは、「どんなことからも学ぶことができる」ということを示し、自発的に学ぶ意欲を刺激するところにあるのではないかと思うのです。
これからの時代は、文字情報だけでなく、画像や映像を主眼に置いたSNSも台頭してきており、ピクトグラムなどの視覚情報を使いこなすスキルも求められてきます。
これまでの常識はもはや通用しない世界も多くなってきています。
だからこそ、「マンガからも学べることは沢山ある。もっとマンガを読もう」。そう胸を張って生徒に主張できる教育を私は目指していきたい。