ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

立ち読みを推奨したら、フリスク屋が儲かる

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今日、何気なく見ていた「ホンマでっか!?TV」にて、次のような解説がされていた。

 「電子書籍は、購入したユーザーがどこまで読んだのかが出版社側に分かるようになっていて、その情報を元にして出版社はその作品の人気度を測り、読者に受ける作品作りの参考にするのだ」と。

なるほど、電子化することでこうしたことも可能になったのだな、と思わず感心したものである。

 

 

情報過多の時代

 

「ビッグデータ」の概念が浸透した今、データを集めるのは以前に比べて非常に容易になったと言える。

 

事実、私たちは日常の行動をあらゆる手段によって監視されている。

何気なく答えたアンケート、ネットショッピングの履歴、ふと目に留まってクリックした動画。これらはその人間と紐づけられる形で、しっかりと蓄積されている。

そして、匿名化された情報は様々なところに提供されているのだけれども、私たちはそのことに気づいていない場合が多い。(あるいは、無関心である)

 

もはや人々の生活にすっかり溶け込み、必需と化したコンビニエンスストアでは、ポイントカードと紐づけた「POS(販売時点情報管理)システム」による入荷・在庫管理を行っている。微々たるポイントと引き換えに、私たちの購買パターンは筒抜けになっているということだ。

 

とはいえ、これらの情報は基本的には悪用されることはないため、別に悪いことではないだろう。

 

むしろ、世の中にデータが溢れすぎてしまっているがゆえに、扱わねばならない情報が膨大かつ複雑になりすぎていることの方が問題なのかもしれない。

 

 

分析は人間の仕事

 

情報技術の発展が膨大な情報の蓄積を可能としたところで、結局それを意味付け、因果関係を取り出し、効果的に運用していくのは我々人間の仕事である。

いくらAI技術が進歩しようとも、この作業はやはり人間には及ばないだろう。

 

データ分析の力 因果関係に迫る思考法 (光文社新書)

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AI vs. 教科書が読めない子どもたち

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 単なる数値の羅列として示された情報をいかに分析するか。どういったストーリーを作り上げていくのか。そこが分析者の腕の見せ所である。

データを生かすも殺すも、分析者の腕一つと言うわけだ。

 

 

データをどう分析するか

 

こうしたデータマイニング(データから価値ある情報を発掘すること)に関する一種の都市伝説的な事例として、「オムツとビール」というものがある。

 

とあるスーパーマーケットにて、販売データを分析したところ、なぜかオムツとビールがよくセットで売れていることが分かった。

この背景を探ったところ、「妻から子供のオムツを買ってくるよう頼まれた父親が、ついでにビールも買っている」というストーリーが判明したため、オムツとビールを近くに置いたところ、売り上げが増加した。 

 

というのが大まかな内容である。

データを分析し、そこに隠された関連を見出すことで、自身に益を生み出すような新たな戦略を創出することができる、というわけだ。

 

戦略思考トレーニング (日経文庫)

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さて、もう一つ例を挙げよう。

私は毎週水曜日の、午後19:00~20:00に、職場近くのコンビニにてフリスクを一つだけ買うことが多い。

 

クラシエフーズ フリスク ペパーミント 8.4g×12個

クラシエフーズ フリスク ペパーミント 8.4g×12個

 

 

これがかれこれ十年近く続いているので、そのコンビニのPOSを通じ、それなりのデータとして蓄積されているはずだ。

 

これは理屈としては非常にシンプルであり、

 

①仕事終わりにコンビニで漫画雑誌を立ち読みをする(時間帯と曜日の必然性)

②ただ、立ち読みだけして帰るのは忍びないと考える(小心者に共通する行動原理)

③そこで、申し訳程度に価格がそこそこのフリスクを買うことで、少しでも罪の意識を軽減しようとする(商品が売れたという事実)

 

というメカニズムがそこには潜んでいる訳である。

(近似の事例に、「トイレだけ借りて何も買わないのは気が引けるから、ガムでも買っとこ」というものがある。)

 

 

さて、当該コンビニにおける情報分析の担当者がこの事実に辿りついたのなら、まずはマンガ雑誌が19:00までに売り切れないよう、少し多めに入荷をさせるだろう。

なぜなら、立ち読みをしなかった私は、何の後ろめたさも生まれないために、さっさと別のコンビニへ移動してしまうからだ。フリスクを買わせるためには、まずは立ち読みをさせなければならない訳である。立ち読みを禁止するなどもってのほかである。

 

次に、水曜日にフリスクが売り切れないよう、補充を徹底させる、という戦略も取られるはずである。これにより、何も買わずに帰ってしまうという事態を防ごうとするわけだ。

 

 

 とまぁ、なんとも卑近でくだらない例を挙げてしまった気もするが、ともかく何が言いたいのかはお分かりいただけたことと思う。

(もちろん、実際のデータ分析はこんなに単純なものではありません。あくまでも、単純化して説明するために私個人の身近な例を挙げただけであり、実際の分析の現場では、個々人レベルの傾向などをいちいち把握するなんてことはしない、ということは念のため補足しておきます。)

 

データを扱う者は、「目の前に示されたデータ」がいかにして生み出されたのかを分析する能力が求められている、というわけである。

 

「風が吹けば桶屋が儲かる」ではないが、意外なところに因果関係が潜んでいたりするから面白いものである。

 

 

学校現場でもデータを重視すべき

 

こうした「データに基づいて現状を認識し、今後の見通しを立てていく」という作業は、これからの教育現場にも絶対に必要な観点ではないだろうか。

 

生徒には、模試や試験の結果を返す時には必ずこの話をするようにしている。

大事なのは、その瞬間の「得点・偏差値・順位」といったデータそのものではない。数字の大小に一喜一憂する暇があれば、まずはその数字が表れた背景を洗い出すべきである。

なぜこのような結果になったのか。その原因はどこにあり、今後の改善のためにはどの要因に変化を与えなければならないのか。

 

成長を続けるためには、絶えず自己の周辺に散らばっている情報を適切に分析する力が求められるわけであり、それを怠っていれば、なかなか思うような結果は残せない。

 

 

そして、これは何も別に生徒だけに限った話ではない。

我々教員だって、そうしたデータから有意な情報を取り出すだけの分析力を磨かなければならないだろう。

入学者数や入試結果は数値として残っており、更に入学後の成績の推移や問題行動の発生率などもある程度はデータとして追うことができる。そうしたデータを的確に分析することができれば、より効果的な教育を行ったり、学校の在り方を改革していく指標としても役立てることができるはずだ。

 

どうも教育現場には「データを分析する」という文化があまり根付いていないようにも思える。

しかし、時代を考えれば、これからはもっとそうした部分にも力を入れていかなければならない。でなければ、あっというまに時代の波に押し流されてしまうだけである。