今日は訳あって17時に退勤しましたが、いつもは学校の規則で決められた19時ギリギリまで学校にいるのでなんだか変な感じでした。
あまつさえ、まだ大半の先生が残っている中帰ることに妙な罪悪感を抱いてしまう始末。うーん、いい感じに毒されているな、これは。
教育現場のいわゆるブラックさが徐々に世に浸透してきていますね。
最近は各種メディアでも教師に同情的な論調が散見されるようになり、ようやく教育現場の特殊性が世間にも認知されるようになってきました。
これまで聖域化されていた教育現場にメスが入るということで、入職以来結構なハードワークを強いられている身としては今後の動向に結構期待しているところ。
「ブラック」のハードル低下現象
ただ、少し気になるのが「ブラック(企業)」という言葉が本来持っていたはずの深刻さや負のイメージが、ここに来てやや薄れ気味ではないかということです。
変な言い方になるけれども、「ブラック」であることのハードルが下がってきているように思える場面がある。
極端な例を出すと、休日に補習が組まれたり、考査付近に学校行事が設定されたりすると、生徒からは「あ~、この学校まじブラックだわ~」という言葉が飛び出してくる。
「うるせー!こっちだってやりたくねーよ!」と言ってしまいたくなるけど、グッと我慢。
こんな感じで、大人も子供もちょっとでも自分が辛くなると「ブラックだわー」と発言するのが一種のトレンドになっているように感じます。気のせいでしょうか?
この現象は、初めてバイトして舞い上がっている大学生が「あ~、うちの店の労働環境パネェわ、残業とかマジでつれーわー。しかも4連勤とかマジ勘弁してくれっつーのw」とか言っちゃうあの感じに似ている。
まぁ、これは10年以上前の若かりし頃の私の事なんですけど。
あの頃の私に言ってやりたい、「舐めんな、こちとら20連勤とかザラだぞ」と。
言葉はみんな、生きている
言葉は人口に膾炙するにつれて洗練されていきますが、ある点をピークとして逆に摩耗しはじめ、果てには徹底的に消費され尽くされてしまいます。
何事も流行り廃りは世の常。言葉とて例外ではなく、いつまでもその新鮮さと強烈なメッセージ性は持ちえないようにできています。
そこに気をつけておかないと、こちらの意図した通りに言葉が通じないなんてこともしばしば発生する。
これは少し前に隆盛を誇った「〇〇ハラスメント」にも似た匂いを感じます。
本来は、社会問題として深刻な状況を言い表した言葉であり、当事者全員がしっかりと向き合っていかねばならないはずなのに、次第に細分化しすぎてしまい気付けば当初の求心力を失ってしまっている。
便利な言葉ほど一般化するのは早いため、その落とし穴に気をつけなければなりません。
「言葉」で判断するな、「実感」を大切にすべし
また、「人は【病名】を病む」とはよく言ったもので、「ブラック」というレッテルが貼られると、あまり気にしていなかった人でも、なんだかそう言われればそうなんじゃないかと思ってしまうものです。プラシーボ効果とほとんど同じメカニズム。
人間心理のなんと頼りないことよ。
そんなわけで、方向を見失うと、「うちのブラック的な所はどこだ!? 探せー!一匹も 逃がすなー!」といった粗探しが始まってしまうことも起こりうるわけです。これはあまりよろしくない。
論点の誘導、危機意識の扇動が起こり始めると、現場は一気にカオスになってしまいます。そうなると本末転倒どころの騒ぎではない。
案外、体制側に頼らずとも、少し目先を変えてみたり、工夫ひとつしてみたりで何とかなったりすることもあります。
言葉に踊らされて全てを人任せにするのではなく、そうした自己点検の機会を失わないようにしたいものですよね。
「ブラック」の放置はダメ!絶対!
誤解無きよう付け加えておくと、学校のブラックな部分は絶対に根絶すべきです。このままでいいわけがありません。
教員の過労死等の報道を耳にする度に、現場で働く教員一人一人の生活の保証ができずに何が教育だ、と憤りを感じます。
これまでに黙認(黙殺)されてきた教育現場の不条理の解消に向け、国や自治体、各学校が一丸となって改善に向けて動けるならば、それがベストです。
私自身も、一刻も早くそうなるよう、出来ることをしていきたい。声を発し続けていきたい。
最近特にそう思います。