ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

「主体性のあるバカ」ほど厄介なものは無い

 

先日、進学コース一年生が受験した外部模試の結果が返ってきました。

分析してみると、これまでの生徒と比較して明らかに全体的な偏差値が下がっていることが分かります。(あまりそこを比較するべきではないのですが、どうしても気になってしまうところ)

 


とはいえ、今年の一年生はいわゆる「詰め込み型」の授業をやめているので、こうなることはある程度分かっていたのもまた事実。

 


さて、このままでいいのだろうか。
先の見えない新入試制度。教える身としては、毎日考えることばかりです。

 

www.yasuteru24.com

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「大学入試改革」とは言うものの……


2020年より始まる「大学入学共通テスト」。
それに向けて、今年の一年生はあれこれと試行錯誤しながら、大幅に授業スタイルを変えているところです。

 

その中で非常に難しいのは、生徒の「資質・能力」と「従来型の学力(ペーパーテストで点を取れる力)」をどういったバランスで鍛えていくのか、ということ。


最も恐れているのは、アクティブラーニングのような生徒の主体性を発揮させる教育ばかりを行い、結果として「主体性は身についたけれども、それを発揮するための土台となる学力が疎かになってしまいました」というパターン。
今回の模試結果を受けて思ったのは、少し「主体的な学び」に重きを置きすぎて、肝心の知識習得に対するアプローチがやや弱かったのかもしれない……、ということでした。

 
まだ始まってすらいない新入試。

よく考えれば、大学側が作成する試験(いわゆる二次試験)が、高校の現場で育成を進めようとしているような「資質・能力」に対応した問題となる保証はどこにもないわけです。
いや、そもそも「共通テスト」にしてみても、結局は従来のマーク式の知識問題がベースになっているのも事実なわけで、「大学合格」だけを見据えるのならば、まだそちらの対策に重きを置いた方が利口と見るべきか……。でもそれは私のポリシーに反するし……。

本当に悩ましいところです。

 

実際に2020年の入試が始まってみないと分からない事とはいえ、いざ蓋を開けてから「あ、教え方間違った」では済まされないだけに、かなりの神経を使います。

 

 

「ゆとり教育」と同じ轍は踏めない

 

大失敗を喫した「ゆとり教育」。私もその世代です。

この失敗の背景には、「そもそも何のために『ゆとり』を生み出す必要があるのか」といったことや、「生み出された『ゆとり』で何をさせなければならないのか」といった、大事な部分の欠落があったということが挙げられます。

 

あらゆる縛りを緩くしたはいいものの、よく言えば「ゆとりある教育」、悪く言えば「ほったらかされる教育」で終わってしまい、せっかく作られた「ゆとり」を有意義に使えずに持て余してしまう人間を大量に生産してしまった、という訳です。

 

その結果生み出されたのが、「言われなければ何もしない・できない」という、いわゆる「指示待ち人間」なわけですが、これも致し方ないことでしょう。


今なお繰り広げられる「ゆとり世代」vs「それ以上世代」の不毛な争い。終戦を迎える日は果たしてやってくるのでしょうか……?

 

 

さて、そうした反省も踏まえた上で打ち出された現在の教育改革。
これからの教育はどこに向かっていこうとしているのか?

ゆとり教育と似たようなことが今繰り返されてはいまいか?

非常に心配するところです。

 

 

主体性だけで生きていける?

 

最も懸念するのは、学校教育において「主体性」の育成が重視されるあまり、「知識軽視」に陥ってしまうのではないか、ということです。
誤解を恐れずに言えば、「主体性のあるバカ」を大量に生み出してしまうのではないか、ということです。


かつてのゆとり教育世代は、「指示待ち人間」の烙印を押されてしまった一方で、「与えられた仕事は忠実に、丁寧にこなす」という一定の評価が与えられているのもまた事実です。

 


しかし、今回の教育改革では、教育する側が一歩間違えてしまうと「主体性はあるが、その主体性を発揮するための基礎的な知識を欠いている人間」を生み出しかねません。
つまりは、「指示を待たずに勝手に動くくせに、仕事を忠実にこなすだけの能力も無い」という人間を生み出す可能性もあるわけで、それは控えめに言って最悪の結果だといえます。

 

これは端的に言えば「主体性のあるバカ」の量産。
これって正直、ゆとり教育世代よりたちが悪いのではないでしょうか?

 

 

大事なのは「何のため」を見失わないこと

 

「資質・能力を育成する」といっても、それは何も「アクティブラーニング」ありきではないし、逆に言えば「アクティブラーニングをしているからそれで安心」は大間違いだということになります。

一方、巷で数多く出版されているアクティブラーニングの入門書的な書籍には、「生徒が楽しく学べばそれでよい」だとか、「生徒が主体的な活動から学び取ることを信じましょう」的な内容に終始しているものもあり、「正直それってどうなの?」と感じるものも無いわけではありません。

 


いつの時代も、生徒たちは勉強することが嫌いです。私だって大嫌いでした。
それを「アクティブラーニング」という言葉で誤魔化すことなく、どのように導いてあげるのかも教師の持つ大切な力の一つではないかと思うのです。

 

流行しているという理由だけで、「主体的・対話的な学び」や「アクティブラーニング」という言葉に踊らされていては、「ゆとり」を作っただけで満足してしまった「ゆとり教育」の二の舞です。

 

 

「なぜ生徒の主体性を養う必要があるのか」
「なぜアクティブラーニングを行わねばならないのか」

 

といったことを踏まえながら、適切なカリキュラムや授業内容を考えていかねばならないなぁと感じます。

 

暴走する能力主義 (ちくま新書)

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