【目次】
なぜ「ゲーム」は無条件に嫌われる?
公私を問わず、教育の場ではよく「ゲーム禁止」を餌にして子どもを意のままにコントロールしようとするやり方があるけれども、このご時世ではあまりに乱暴すぎる。場合によっては逆効果ですらある。
考えてみて欲しい、自分が一番心の安らぎを得られるものを理不尽に奪われるやるせなさを。大人だって、自分の拠り所とする趣味や嗜好品を誰かの都合で一方的に奪われるのは看過できない事態のはずだ。個人の趣味がこれだけ多様化した社会において、なぜ「ゲーム」だけが目の敵にされねばならぬのか。
「マンガ」においても似た構造が見られるが、ゲームの嫌われようの比ではない。
かつてのテレビゲームと違って、生活必需品であるスマートフォンと不可分である「スマホゲーム」は、生徒の日常から容易に切り離すことはできない。なればこそ、目先を変えて共存を図る方向にシフトを変えていくことが有効な手立てとなりうるはずだ。
奪うのではなく、上手な使い方を指南したい
教育現場においてゲームが蛇蝎の如く嫌われるのは、ゲームの持つ「中毒性の高さ」への警戒心が働いているのだろう。それは確かに否定はできない。「ゲームに熱中すると、他のことに目が向かなくなる恐れがある」というのは紛れもない事実である。それほどの没入感をゲームはもたらすものだ。
ただ、だからといってゲーム自体を子どもから奪い取ろうとする思考に転じるのは早計だ。どうして子どもがゲームに熱中するのか、そのメカニズムをもっと深く分析して欲しい。逆に考えれば、それほどに人間の意識を一つの事に集中させる仕組みが確立されているというのはなかなかに興味深い。なればこそ、そこから教育に転用できる知見を抜き出してくることができれば、教育にとっては大きな助け舟となりうるはずだ。
デメリットにばかり目を向けて一方的に「悪」のレッテルを張るよりも、その背後に存在するメリットに目を向けることで上手な共存を図る。そうした指導が必要になる時代がもう目前に迫ってきている。
きっとできるし、しなければならない。喫緊の課題である。
「連続ログインボーナス」という動機誘因システム
例えば、生徒が毎日スマホゲームをし続ける理由の一つに、「連続ログインボーナス」というものがある。
現在何日間連続でログインしているのかがしっかりと記録されており、ゲームの起動時にプレイヤーに知らされる。そして、その日数に応じて、ゲームの進行を有利に進められるアイテムが「ボーナス」と称して与えられるというシステムだ。これによって生徒は何が何でもログインを続けようと必死になる。そして、せっかくログインしたのだからとそのままゲームに興じるわけである。
このシステムは実に素晴らしい。なるべく毎日自社のゲームをプレイしてもらいたいゲーム会社にとっても、なるべくゲームを有利に進めたいプレイヤーにとっても、どちらにも利のあるうまい働きかけである。
となれば、この仕組みを教育にも取り込みたいところである。
今クラスでは家庭学習の記録を提出するよう義務付けているが、全員が連続で提出できたか否かを記録し、日数を示すようにしている。結果、連続ログインよろしく日数のカウントが伸びていくことに楽しみを感じているようで、提出率はかなり高くなってきた。ただ単に「毎日必ず出しなさい」という指示ではこうはいかないはずだ。
もちろんキリの良い日数には「ボーナス」を準備する。それは「宿題の軽減」だったり、「席替えの実施を数日早める」だったりするが、これでも結構みんな面白がってやる気を出してくれる。
「ご褒美をエサにして生徒をコントロールするなんて」といった批判が予想されるけれど、これは企業が従業員に対するインセンティブとして取り入れている報奨プログラムと何も変わらないはずだ。
「協力プレイ」という名の協働
ソーシャルゲームでは「フレンド」と一緒に同じ目的に向かって協力し合う「協力プレイ」も醍醐味の一つだ。これは学校における「グループ活動」に似た部分がある。
一人では達成困難なミッションに向かって、より大きな成果を上げるために互いに協力し合う。そこには自分の独断のプレイは認められないし、相手の能力やプレイのクセを推測・理解した上で、そこに自分のプレイを寄せていく必要も出てくる。
ロールプレイングゲーム(RPG)というジャンルがあるが、これこそまさに「プロジェクトの達成に向けて各自で役割を演じる」演習である。魔王を倒し、世界を救うためにはパーティー全員が剣を振り回せばいいというわけではない。あらゆる状況に対応すべく補助役も必要だし、相手の特性に応じて連携の仕方も臨機応変に対応させていかなければならない。
ゲームではそうした協働によって為しえた達成度を数値化することによってランキングを競わせたり、達成項目をアチーブメントとして蓄積させることでモチベーションを上げたりと、あらゆる工夫を凝らしている。そして、そこにはうまく扱えば教育の場に転用できそうな要素が転がっている。
「ゲームライクな活動」と言っても、その匙加減は難しい。行き過ぎると肝心の「教育」効果が弱まってしまうこともあるので、慎重さは必要だ。ただ、授業をする際の一つの武器としては結構有効なのではないかと感じるところである。
「しょせんゲーム」と言わないで
「ゲーム=低俗」という謎の固定観念に縛られ、権威を振りかざして一方的に排除しようとするのは非常にもったいない。考え方の矛先を少し変えてみれば、結構役に立つ考え方が潜んでいるのもまた事実なのだ。
もちろん、そうした小手先のテクニックに頼ることなく、王道を貫いて教育を遂行できるだけの力を身につけるのが我々教師に求められていることなのだろう。奇策を弄するのは格下のやることである。確かな実力を元に、自分の土俵で横綱相撲を取れるようになれれば、それに越したことは無い。
ただ、「低俗だ」と一蹴するだけでは何も変わらないし、これから先苦労は増すばかりである。両者の目指す先には少なからず共通するところがあるわけで、であればこそ悪い部分のみならず、もう少し良い部分にも注目してみてもバチは当たらないのではないだろうか。
一日の疲れを癒すべく息抜きにスマホゲームに興じながら、ふとそんなことを考える夜なのでした。