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「ゲームをするな」という「押し付け」
教育の場ではソーシャルゲームは嫌われる運命にある。
その理由は学習との非親和性、要するに「ゲームばっかりさせると全然勉強しない」というものであり、至極真っ当な指摘である。
ただ、「ゲームをするな」とは、「ゲームを享受することを制御する立場」からの視点であり、ゲームを楽しんでいる子どもたちにしてみれば、その忠告はさほど役には立たない。
最近では保護者がヘビーゲーマーというのも珍しくなく、話を聞くと、ゲームを通じて家族間の良好なコミュニケーションを取っている子も結構増えている。
問題はゲームへの過度の「依存」により、その他自らの生活を成立させる諸活動に支障をきたしてしまう、という状況であるはずだ。用法・容量を守って、人生を充実させる手段として制御できているならば、それは赤の他人がどうこう口を出す問題ではない。
それを踏まえた上で、もっとこう、原理的な部分を理解させたうえで抑制しなければならないと思うのだ。
そのあたりについては以前こうした記事も書いていたりする。
「作る側」に立って初めて見えるもの
そこで最近ぼんやりと考えているのが、生徒にソーシャルゲームを作る側の視点を獲得させればよいのでは、ということである。
「ソシャゲをプロデュース! ――課金させたくなるようなゲームを企画しよう」とでも題打とうか。もういっそのこと、「メチャメチャ課金させるためのゲームを生み出そうぜ」というコンセプトで、思う存分ゲームについて語り合ってもらうのだ。
ヒット作を分析し、その背後に潜んでいる製作者側の意図をいかにうまく読み取ることができるかがカギとなる。
制作する側は、いかに消費者の射幸心を煽ってじゃぶじゃぶ課金させるのかに心血を注いでいるわけであり(偏見)、そこには「課金をさせるメカニズム」が確かにデザインされている。
ゲームバランスの構築だとか、ユーザーのニーズに応じた所有欲を満たすキャラクターの創出だとか、ユーザー同士を協力させ(あるいは競わせ)ることで所属欲に訴えるだとか、そのやりかたは実に多岐にわたっており、あらゆる要素が複雑に絡み合っている。アイテムの価格設定や販売期間なども、あらゆるデータを元にかなり細かく設定されているはずだ。
難しいのは、「面白いものをとにもかくにも詰め込めばよいわけではない」ということであろう。ヒット作がある一方で、鳴かず飛ばずで利益を上げることなく人知れずサービスを終了したゲームも枚挙に暇がない。
あくまでも「金儲けの算段」と「課金してでもプレイしたくなるような面白さ」との絶妙なバランスでの両立が不可欠であり、この辺りは非常にシビアな世界なのだと思う。
「相手の側」から考えれば、行動の意味も変わってくる
そんなわけで、「課金させる側」の道理を知っていれば、ただ踊らされるがままに依存し、課金してしまうことも多少は抑えられるようになるはずだ。少なくとも、「相手の思惑を知った上で、それでもなお課金する」という一つ上のレベルでの行動がとれれば、それはそれで一定の効果はあるだろう。
縁日の屋台で売っている食べ物など、ぼったくり以外の何物でもない。それを知っていれば、冷静に「買わない」という判断を下せるだろうし、買うにしても「思い出料」や「作り手の苦労への対価」といった「本体とは別の付加価値にお金を差し出す」という感覚を持つことができれば、そこで発生する金銭のやり取りはまた違った意味を持つはずだ。
この辺りは文化祭の模擬店なんかでも気づいてもらいたい感覚ではある。大抵の高校生は「お祭り」というその場の雰囲気に呑まれ、特に深く考えずにぼったくり価格の商品を買ってしまう。これでは「売る側」も深く考えることは無く、双方にとって何の学びにもならないイベントになってしまいがちである。
あくまで「教育」の一環として
と言った感じで、実際に夏補習の期間などをうまく利用し、そんな授業ができればなぁとぼんやりと考えています。分析レポートや企画書の作成は是非とも授業で取り扱いたい内容の一つではありました。
ただ、細かい部分を詰めていくと、これは国語だけで完結する話ではなく、情報や数学、公民などと横断的に取り組めればより高い効果を望める気もします。うまく事を運べれば、生徒指導にも十分役立つはず。
もう少し時間はあるので、もうちょっとブラッシュアップしてから試しに実践してみようかなぁ。