ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

個人的に選ぶ「平成の10冊」

「平成」も本日で終わり、明日からは「令和」が始まります。

私は平成生まれではありませんが、昭和の末期に生まれたため、物心ついた時が丁度平成の開始と重なります。これはもう、平成を振り返るということは、私の半生を振り返ることと同義であると言えるでしょう。

 

というわけで、個人的な「平成の10冊」を選出してみました。

あくまでも個人的な回顧録としての要素が強く現れたチョイスであり、「おすすめの本」というわけでは決してない、ということを前もって申し添えておく次第。

では、時系列(読んだ順)でいきましょう。

 

【目次】

 

 

①「にゃんたんのゲームブック――きっかい!ロボット島」

 

聞いたところによると、私は子どものころから迷路やなぞなぞが大好きだったらしく、常にその手の絵本を読んでいたらしい。中でも記憶に鮮明に残っているのは「にゃんたんのゲームブックシリーズ」。地元の市立図書館で毎週のように借りて穴が空くほど遊び倒していました。

「ゲームブック」という世にも素晴らしいジャンルが存在することを知ったのはこの本のおかげ。「本とはただ活字の羅列されたものを始めから順序良く読んでいく以外の楽しみ方があるのだ」ということに気付かせてくれた、紛れもなく私の人生に影響を深く及ぼしている一冊。

 

 

②「まんがで学習ことわざ辞典」
まんがで学習ことわざ事典 全5巻

まんがで学習ことわざ事典 全5巻

 

 

我が家には親の計らいにより「まんが」で学習できる本がいくつか置いてありました。日本史・世界史・人体の不思議……など、結構なバリエーションがあったように記憶していますが、その中でも私は、他のシリーズには目もくれずひたすら「ことわざ」を読みふけっていたらしい。

なぜ「ことわざ」だったのか、その理由は自分でも良く分からない。何か本能的に惹かれるところがあったのでしょうか。ともかく、「三つ子の魂百まで」ということわざもあるように、私が国語教師になる兆候は既にそういうところにも現れていたのだろうか、と今になってもしみじみ感じるところ。

 

 

③「ダレン・シャン 奇怪なサーカス」
ダレン・シャン1 奇怪なサーカス

ダレン・シャン1 奇怪なサーカス

 

 

小学生から中学生の頃にかけて「ハリーポッター」シリーズが世を席巻。

ファンタジー小説としては異例の大流行であり、まさに猫も杓子も「ハリーポッター」という時期に、私はむしろこの「ダレン・シャン」シリーズに傾倒していました。

「ハリーポッター」が王道ファンタジーだとすると、この「ダレン・シャン」はダークファンタジー。吸血鬼や毒蜘蛛といったダークな設定によって織りなされる、血みどろでグロテスクな世界観は「ちょっと背伸びをしたいお年頃」であり、中二病を発症しがちな男子中学生にはドンピシャでした。発売日には先を争うように読破し、内容や先の展開について友人と熱く語り合ったものです。

 

④「ファイナルファンタジーⅧ アルティマニア」
ファイナルファンタジーVIIIアルティマニア (SE-MOOK)

ファイナルファンタジーVIIIアルティマニア (SE-MOOK)

 

 

「攻略本」の概念をぶっ壊してくれた一冊。これはもう「読み物」である。

もともとゲーム好きな私は、ゲームの攻略本もかなり愛読していました。時には自分の所持していないゲームの攻略本を購入して、それを読みながら妄想に耽る、というなかなかにマニアックな楽しみ方をすることも。

そんな中颯爽と現れたこの「ファイナルファンタジーアルティマニア」シリーズ。個人的にFF8が一番好きだというのもあるわけですが、それを差し引いてもこの一冊のボリュームはすごい。何年経っても夢中になって読むことのでき、そしてその度に新たな発見がある、そんな魅力がギュッと詰まった至高の攻略本。

 

 

⑤「平面いぬ。」
平面いぬ。 (集英社文庫)

平面いぬ。 (集英社文庫)

 

 

人生で初めて自分のお小遣いで購入した小説。そんなわけで自分史上に燦然と輝く一冊です。この本をふと手に取っていなければ、国語教師になっていなかったかもしれない。

短編集なのですが、その中の一編である「はじめ」という作品が、「週刊少年ジャンプ」にて小畑健氏によってコミカライズされていたのが今でも鮮明に記憶に残っています。あのジャンプは切り抜いておくべきだったと今でも後悔。単行本未収録の伝説の作品となってしまいました。

 

教師になってから、勤務校における図書館報内の「私のおすすめの一冊」コーナーに寄稿した文章が残っていたので、記念に引用しておきます。

 

読書とは無縁な高校生だった僕が生まれて初めて自分のお金で買った小説である。他者を石化する怪物との邂逅を描く「石ノ目」を始め、四つの短編はどれもホラーの装いだが、各々に異なるテーマが存在しており読後には妙な爽快感が残る。先を読みたくなる展開の巧みさに、簡潔な読みやすい文体が相まって読書入門にはうってつけの一冊だ。

 

だそうです。

 

 

⑥「クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い」
クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

クビキリサイクル 青色サヴァンと戯言遣い (講談社ノベルス)

 

 

そんなこんなで、高校生になってから自分のお金で本を買い始めるようになったのですが、ある時ふと「ミステリ小説」が読みたい、と思い立ち、ネットでおススメを調べてから購入したのがこの一冊。

講談社の文学賞である「メフィスト賞」の第23回受賞作。今や押しも押されもせぬ人気作家「西尾維新」ですが、氏の出自がミステリ分野だということを知っている人は、今となってはあまりいないのかもしれない。

ミステリ要素とキャラ萌え要素を融合した作品であり、マンガ好きの私には結構ストライクど真ん中で、シリーズは最後まで熱心に追い続けました。新本格ミステリではお馴染みの、「2週目に伏線を拾い上げながら読み返す楽しみ」もしっかりと盛り込まれた良作。

このシリーズの後半あたりから西尾維新の作品の方向性が「萌え重視」になってしまい、ミステリ要素が無くなってしまったのは非常に残念。あまりにも濃すぎるキャラクタについていけなくなってしまいました。個人的にはミステリ作家としてこの「クビキリサイクル」のテイストを貫いてほしかったなぁと思っています。

 

⑦「すべてがFになる」
すべてがFになる (講談社文庫)

すべてがFになる (講談社文庫)

 

 

私の人生に多大なる影響を及ぼした作家である森博嗣の処女作。

上述した西尾維新も森博嗣からの影響を公言しており、ミステリ要素とキャラ萌え要素を融合した小説の第一人者的存在とも言えます。「メフィスト賞」の初代受賞作であり、そもそもこの賞がこの作品のデビューを華々しいものにするために準備されたというのは有名な話。

「理系ミステリ」と呼ばれるだけあって、発売された時代にはまだほとんど浸透していなかったパソコン用語をふんだんに盛り込んだ、一味違った作風を味わいました。あらゆる謎が最後には一つに収束してゆく快感が病みつきになり、以降この作者の作品は全て追いかけています。

この作者の作品全般に言えることですが、知性を感じさせる言い回しが非常にうまく、登場人物同士の掛け合いもテンポがよいために、読んでいて心地よさを感じます。物事の真理を、客観的で冷静な目線からスッキリとした言葉で言い表してくれることも多く、クリティカルシンキングやロジカルシンキングの基礎はこの本で学んだと言っても過言ではありません。

もうすっかり信者と言ってもよいほどだと我ながら思います。

 

 

と、いうわけで、少し読んだ順番が前後しますが、森博嗣繋がりで更に2冊。

 

⑧「四季 春」
四季 春 (講談社文庫)

四季 春 (講談社文庫)

 

 

上記「すべてがFになる」の時点で重要人物として描かれる、天才科学者「真賀田四季」にスポットを当てたスピンオフ的な四部作の一作目。

世の創作物で、ありとあらゆる「天才」が登場しますが、このシリーズにおける「真賀田四季」以上に「天才の描写」が優れている作品を私は知りません。なんだかこう、うまく言葉にはできないのですが、巧みに言語化された知性の描写に圧倒される、そんな作品です。

 


⑨「人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか」
人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)

 

 

この本は以前の記事でも紹介しました。

 

www.yasuteru24.com

 

小説ではなく新書。

「具体」と「抽象」を使い分ける思考法について分かりやすく書かれています。これは国語の学習においても重要になる考え方であり、授業などで生徒に教える際にもこの本で学んだ内容は重宝しています。高校生に一冊だけ本を薦められるのならば、迷わずこの本を選びます。

私自身、この本に書かれる思考法が人生の指針となったと言っても過言ではない、座右の書です。

 


⑩「箱男」
箱男 (新潮文庫)

箱男 (新潮文庫)

 

 

こちらは平成に書かれた小説ではないのですが、読んだのは平成ということでセーフ理論発動。

 

世界を代表する作家「安倍公房」。シュールレアリスムを得意とする作家ですが、この作品もかなり攻めてます。

初めて読んだ時の衝撃と言ったらありませんでした。そんなわけで、大学の卒論では迷わずこの「箱男」を扱いました。

 

読んでいただければわかるのですが、この作品の本質を一言で表すとすれば「訳が分からない」に尽きます。誰に紹介しても、必ず「なんだか良く分からなかった」という感想が返ってきます。

覗き窓のついた大型の段ボール箱を頭からすっぽりかぶった「箱男」。そんな箱男が、箱の所有権を巡って作中の登場人物たち起こすひと悶着が描かれます。

あらゆるテーマを内包しているのですが、この作品を問題作たらしめている最大の要因は「作者(作中における「ノート」の記述者)はいったい誰なのか」が途中で分からなくなってしまうという作品構造の大がかりな仕掛けにあると言えるでしょう。読者を徹底して煙に巻くような、言葉による迷宮への誘いは、現実世界について改めて見直すためのうってつけの読書体験になり得るはずです。

 

「見る―見られる」という関係の不確実性や、「書く」という行為の本質とは何なのか、といったことを否が応にも考えさせられるそのテーマの深さは、とてもではありませんが一言では言い表すことができません。

卒論も実に7万字を費やしてなお言いたいことを全て論じきれなかった、そんな奥深さを内包した傑作です。

 

 この作品についても学校の図書館報に寄稿しているので引用しときます。

 

私が高校生の時、書店の文庫本コーナーでふと一冊の本が目に留まった。『箱男』という奇妙なタイトルに興味を惹かれ、手に取って解説を読んでみると、そこには次のように書かれていた。

「ダンボール箱を頭からすっぽりとかぶり、都市を彷徨する箱男は、覗き窓から何を見つめるのだろう。」

主人公である男は、自分の姿を他人に見られることを拒み、ダンボール箱をかぶった状態で他人とコミュニケーションをとろうと試みる。作品は、こうした主人公の葛藤や苦悩を通して、社会に生きる我々の孤独を斬新な切り口で描いている。

現代はインターネット社会であるとよく言われる。インターネット上には多くのコミュニティや掲示板が存在し、見ず知らずの人間の日記やつぶやきが溢れかえっている。そうした中で我々は、直接顔の見えない匿名の人物とのコミュニケーションを成立させているのだが、果たして本当にこれを「コミュニケーション」と呼んでいいものなのだろうか。

作品が書かれたのは、インターネットが普及するよりもずっと前であるが、箱男の生き方はインターネット社会に生きる我々と、どこか通じるものがある。パソコン・ケータイという名の「箱」に閉じこもりがちな高校生諸君、一読してみてはいかがだろうか。

 

教師一年目の文章。一丁前にちょっと気取ってやがる。

 

 

最後に

 

以上、思いつくままに振り返ってみましたが、我ながらかなり偏ってますね。

令和ではもうちょっと幅広く読めるように頑張ろう。このブログでもお勧めの本を紹介していけたらいいなと思っています。