前回の続きです。国語教育について考えていることをまとめておきます。
「作者の気持ち」なんて誰にも分からない
どうも国語という教科は勘違いを招きやすい。
特に現代文に関しては、「センスの科目」などと言われ、果てには「どうせできるやつは何もせずともできるし、できないやつはできないんだから勉強したって無駄」とまで言われる始末。
(数学が壊滅的にできなかった私としては、数学の方がよっぽど「センスの教科」だと思うわけで、「それって結局どの教科・科目にも言えるのでは?」と常々思うのですが……)
時として、「文系は一生作者の気持ちでも考えてろよw」といったように揶揄されてしまうのも、国語という教科に対する世間の間違った認識から発せられるものなのでしょう。
(少なくとも、私の教員生活において「作者の気持ち」なるものを扱う機会は1度たりともないし、問題集や模試でもお目にかかったことはありません)
※この件に関しては、この記事に興味深い考察が書いてありました。
https://finders.me/articles.php?id=562「タモリ倶楽部でも特集された『作者の気持ちを答えよ』問題にまつわる根強い誤解」
いずれにせよ、こうした批判は結構な数存在していると認識しています。
これに関しては批判する側が悪いのではありません。その生徒に国語を教えた教員の責任だと思います。
「具体」と「抽象」の使い分け
私が生徒に身につけて欲しいと考えている能力の一つに、「具体と抽象の使い分け」というものがあります。
授業においても、生徒たちには、
基本的に文章とは一期一会。君たちがこれと同じ文章を読むことは今後二度とない。だから、この授業から君たちが学ぶべきは、教師が板書する文言そのものではなく、「 いかにしてそのような解釈に辿り着いたのか」という【根拠に基づいた読解の方法】についてと、「その解釈をどのように表現しているのか」という【思考を効果的に伝達するための表現の仕方】について。具体的な解答から、他の文章にも応用できるような抽象的な思考法・表現法を学ぶことが大切だ。
といった旨を、機会ある度に伝えるようにしています。
そして定期考査においても、板書の丸暗記で答えられる問題は原則作らないようにしています。かといって完全に初見の問題にするのはフェアじゃないので、微妙に必要な着眼点や求める記述内容をずらして出題する、というやり方。
「授業で身につけた能力を使ってクリアしてね」というスタンス。
この考え方は、『人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか』(森博嗣)という本にかなり影響を受けています。
人間はいろいろな問題についてどう考えていけば良いのか (新潮新書)
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これは是非ともこれからの時代を生き抜く高校生に読んでほしい一冊。「高校生にお勧めする本は?」と尋ねられたら、間違いなくこの本を推薦します。
・そもそも「具体」と「抽象」とはどういうことなのか
・どうすれば両者を使い分けることができるようになるのか
・その結果どのような発想が可能となるのか
といったことが、分かりやすく書かれています。
この人の着眼点の鋭さや、本質を突くような考え方は本当に面白い。私が最も影響を受けている作家です。
能力育成の大切さと、難しさ
教育の現場では、授業に限らず定まった解釈を示さなければならないことが多々あります。
繰り返しになりますが、これからは考えを押し付けることで満足するのではなく、「どうしてその解釈が成り立つのか」や「その考え方はこれから先どんなことに繋がっていくのか」ということを教え、生徒自身の気づきや思考の可能性を広げていくような教育が、より強く求められてくることでしょう。
その中で国語という教科は、言語によるインプット・アウトプットの基礎を請け負っています。そして、こんなにも重要な部分を扱う科目だと言うのに、不当に軽視される現状に私は強い危機感ともったいなさを覚えます。
どんな授業がこれからの時代を生き抜く生徒たちの育成に必要なのか。その可能性を探っていきたい。このブログを立ち上げた理由の一つは、そこにもあります。
まだまだ勉強を始めたばかりですが、少しでも理想に近づけるよう、これからも精進していきたいところです。