最近全くと言ってよいほど本を読めていません。
ただでさえ忙しい年度初めの時期であることに加え、この週末は部活動の大会引率業務が入ったこともあり、ただただ積読本が溜まっていく一方。これはいけない。
【目次】
ただ早く読めればそれでいい?
どうも世間では、「本は早く読めた方がよい」というのが主流な考え方のようです。
書店には「速読」「多読」といったキーワードがデカデカと表紙に書かれた本が相当数存在し、世間の需要の高さを表しています。また、図書室が発行する図書報でも「多読ランキング」なるものが毎回発表されており、おのずと「期間内にたくさん本を読む=偉い」という図式が揺るぎないものとなっています。
国語の入試においても、「制限時間」が存在するために、否が応にも受験生は問題文を早く読み取ることを余儀なくされます。特にセンター試験ではそれが顕著に表れているように感じます。センター国語は「時間との闘い」と言われるほど全問の解答には時間を要するもので、ここでもやはり「早く(かつ、正確に)読めるかどうか」というのはかなり重要な要素となっているわけです。
でも、ただ単に早さだだけを追い求めるような読書の在り方にはどうも懐疑的になってしまう私がいます。
大事なのは、その本からどんな刺激を受け、どう変化できたのか
もちろん、早く読めるのであればそれに越したことはありません。
ただ、個人的な思いを述べるならば、単に早いだけではあまり意味が無いように感じるのです。人の読書にケチをつけるつもりはありませんが、せっかく時間とお金をかけるのならば、表面をなぞるだけの読み方では非常にもったいないように感じるのです。
世間には、ただあらすじを知ることだけを目的として、古典的に有名な作品や、各種ランキング入りの話題作を読む人が相当数存在しているようで、結構驚きます。それこそwikipediaなどであらすじだけを掻い摘んで確認すればそれでよいのでは? といつも感じてしまいます。
「多くの作品のあらすじを知っている=教養がある」というのは、全くの勘違いと言えるでしょう。その基準から考えれば、この世で最も教養があるのはAIだということになってしまう。
そうではなく、読書においては「どのように読み、どのように取り込んだのか」をもっと優先すべきなのではないでしょうか。
書かれた内容を頭の中で展開して、イメージを自分の頭の中で再現したり、それをもとに思考を深めたりといった作業のほうがむしろ大切なことなのではないかと感じます。
そのためには、時には読書を中断して辞書や百科事典を引いてみたり(現代ではネット検索で事足りますが、別にそれでも構わないでしょう)、自分の考えをまとめるためにメモを取ってみたり、なんなら一日ゆっくりと頭を冷やしながら反芻してみたり、そんな作業が必要になってきます。そんなことをしていくと、自然と一冊の本を読み終わるにはそれなりの時間がかかっているはずです。
スキャナで取り込むかの如く、機械的に目を通すだけの1000冊の読書経験よりも、たった1冊でも、自分の心を揺さぶり、思考を深めてくれるような読書経験ができることの方が、よっぽど有意義な読書であると言えるのではないかと思います。
「遅読」にも価値がある
決して、早く読めることだけに価値があるわけではありません。
私自身、一冊の本を読み終わるのに結構な時間を要します。ふと思いついてページを何十ページも遡ってみたり、時には以前読んだ別の本を引っ張り出して比較照合してみたり、多くの寄り道をしながら一冊の本を読み終えるのがすっかりとスタンダードになっています。
「本を読むスピードが遅くて困っている」という悩みをよく聞きますが、私はいつも「早く読むことで大事なことを置き去りにしてしまうくらいなら、たとえ遅くたってじっくりゆっくりと読む方がよっぽど有意義だ」と答えるようにしています。
最近自分でブログを書くようになって、より一層書き手が文章に込めた思いの強さや含蓄の深さを実感できるようになりました。作者が執筆にかけた想いにじっくりと時間をかけて寄り添うことは、作品内容の真なる理解には不可欠であるように思います。
にしても読めな過ぎる
以上、「読むのが遅くたっていいんだよ」と自己弁護的に思いを書き連ねましたが、それにしても最近は読書に時間が割けない状況が続いています。
そうこうしている間にも新刊は続々と出版されてゆくわけで、「読みたいのに読めない」という状況は続いている。ああ、なんというジレンマよ。
「じっくりと、たくさん読める」。そんな魔法のような読書術を、ぜひ誰か教えてください。