ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

なぜ古文単語を語呂合わせで覚えてはならないのか

f:id:yasuteru24:20190808020253j:plain

 

国語教育界隈では蛇蝎のごとく嫌われている「語呂合わせ」による単語の暗記。

もちろん、国語教員の端くれとしてして「語呂合わせ」がよろしくないことには全面的に同意するところ。ただ、何の説明もなしに一方的に「語呂合わせ禁止」を突き付ける状況をまま目にするけれど、それはただの教員側の傲慢に過ぎず、下手をすると自己陶酔の感すら透けて見えるのでやめた方が良いと思う。

「なぜ語呂合わせはダメなのか」を語ること抜きに、問答無用で禁止することはむしろ逆効果ですらあると思う今日この頃。

 

【目次】

 

 

なぜ生徒は「語呂合わせ」にすがるのか?

 

そもそも、「語呂合わせ」がここまで市民権を得ているのは、ひとえにそれが学習者にとって「覚えやすい」と感じられる手法だからである。事実、歴史の年号を覚えたり、元素記号の配列を覚えたりする時には語呂合わせがなかなかの威力を発揮するのは事実である。少なくとも、私は学生時代にそれらの暗記を語呂合わせに頼っていたし、同じように学習していたという人の話はよく聞く。効果を実感できないようであれば、教師側が何らかの規制をかけるまでもなく、自然と淘汰されているはずだ。

 

結局はどこに目的を置くかの話である。古文単語の暗記は日常生活を送る上での実用性は皆無であり、99.99%の人間は高校卒業後に古文単語に触れる機会は一切ないと言って差し支えない。よって、大抵の高校生にとっては「古文単語の暗記」という作業が「受験のための手段」と成り下がっているのが実情だ。

となれば彼らの頭を支配するのは、「いかにしてこの面倒臭い暗記の負担を少しでも軽減することができるのか」ということであり、結果、最も手軽そうな語呂合わせに飛びついていく、ということなのだろう。語呂合わせに主眼を置いた単語帳がベストセラーになっている現状からはそうした状況がうかがえる。

 

そもそも「単語を覚える」ことに重きを置くとするならば、語呂合わせだって立派な戦略の一つとして認められて然るべきであり、彼らは自らの目標の達成に向けて最も効果的であると思われる手段を選択したに過ぎない。それを無理矢理剥奪する権利などこちら側には存在しない。

語呂合わせを選択させている時点で、こちら側の敗北である。

 

 

より高い妥当性を実感できるような選択肢を提示できているか

 

しかし、それでもなお我々国語教員は「語呂合わせ」を糾弾しがちである。

ただ、冒頭にも書いたように、それを禁ずるだけの納得のいく理由を生徒に対して十分に説明できているかというと疑問が残るところである。

「語呂合わせ」を忌避しようとする言説の背後に潜むのは決して私的感情ではないはずだ。そんな曖昧で不確実な根拠を元に話をされても、それは生徒としても従いたくなくなるのは自明の理である。そんな感情の押し付けは余計なお世話であり、生徒にしてみれば「それはあなたが国語好きだからそう思うんですよね?」という話である。根本的な認識の食い違いは何も解消されていない。

 

「言わなくたって分かるだろう」は教育の場では禁忌である。「理由は説明しないけど、とにかくダメなものはダメ」という強行策を採るのはフェアプレイの精神に反するというものだ。

そもそも、そうした無責任を回避するために「論理」というものは存在する。言語運用に基づく「論理」を守備範囲とする国語教師だからこそ、そのことを肝に銘じておく必要があるはずだ。

 

 

生き物としての「ことば」と「語呂合わせ」の相性の悪さ

 

問題は、「語呂合わせ」という乱暴な手法を経由することで、「ことば」が成立するに際して内包していた多くの情報が削ぎ落されてしまうことにある。

「ことば」には、それが古くから伝わるものであればあるほど、時代のふるいを潜り抜けてきた先人の知恵や、古来より代々伝承されてきた日本人の諸事象に対する捉え方が染み込んでいる。そしてそれは少なからず現代の我々の生き方や物事の考え方に影響を与えているはずである。語源を探り、ことばを解き明かしていく過程において、それらがよりはっきりと浮かび上がってくるわけであり、機械的な丸暗記に陥ってはならない、という主張はここで意味を持つ。

自分にも脈々と受け継がれている「日本人」としての感性を自認することが視野を広げ、結果として人格部分の成熟を促すことになる。古文の言葉を学ぶ意義はそういうところにもあるはずだ。

 

 

現行の受験システムに問題アリか

 

ただ、「文化」や「感性」を学ぶということが受験で高得点を取ることに殆ど直結しないものだから、こうした部分は軽視されてしまっているのが現状である。

大事なのは、「ことば」の持つ深淵さの一端に触れる機会をなるべく多く設けることで、生徒の「学ぶ動機」そのものに働きかけていくことなのだろう。そしてそれは、単に「ことばは素晴らしい、語呂合わせじゃ駄目だ」と声高に叫んだところで絶対に生徒には伝わらないものでもある。

そんなわけで、日頃からことばと上手に付き合っていく意識を喚起するような授業を展開していきたいし、していかねばならないのだろうと感じるところである。

 

と、口で言うのは容易いけれど、これほどに実践することが難しいこともそうは無い。

いやはやいったいどうしたものか。思案は続く。