ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

「忘ること忘るべからず」ということを思い出す

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ここのところ物忘れが激しい。

 

古典の授業を複数学年にまたがって受け持っているため、授業である事項について説明しようとするときに、それが二年生のクラスで教えたことなのか、三年生のクラスで教えたことなのかが分からなくなる瞬間がある。意気揚々と単語の語源なんかを説明している途中で、「あれ? もしかしてこの話最近したっけ?」となるわけである。

 

これは「いつ、何を教えなければならない」という明確な進度が定まっていない国語の自由度の高さゆえの弊害であると言える。一年生の序盤における本当に基礎的な部分は別として、ある程度まで行くと、もう二年生だろうが三年生だろうがお構いなしで、何を、どんな順番で教えても一向に問題が無い。国語ってそんな教科だ。

例えるならば、一本道で進むべきレールが定まっているRPGならば道に迷うことが無いけれど、自由度の高すぎるオープンワールドゲームではその自由度の高さゆえ道に迷ってしまう、という現象に近い。なんだか逆にわかりづらい気もするが、ともかくそんな感じなのである。(そういえば、最近オープンワールドゲームの最高峰との呼び声高い「ゼルダの伝説 ブレスオブザワイルド」を全然進められていない。)

 

そんなわけで、特に二年生には夏休みの辺りから「もう君たちに教えられることは全て教えた。だから、明日がセンター試験だったとしても自分には一切の未練は無い」と冗談交じりで言ったりする。そして、それは実際にその通りで、もう本当にこの時期になるとほぼ全ての事項を一通り教えている。そのため、それ以降大学受験までは特に新しい事項を教えることも無くなっており、様々な文章でその知識を定着させていくだけになる。(もちろん、授業の目的は知識を教え込むことにあるわけではない。日本文学の醍醐味を味わわせ、言語文化に親しむ態度を涵養するような活動は必要になってくるわけだけれども)

 

 

とまぁそれはいいとして、そんなこんなで「このクラスにこの事項を教えたかどうか」の確証が自分で持てなくなった時には、率直に目の前の生徒に「最近この事項について教えたっけ?」と尋ねてみることにしている。

この問いかけには結構な確率で首を傾げられるわけだが、これが本当に教えていないのか、それともちゃんと教えたけれど単純に生徒が覚えていないだけなのか判然としないのは一種のご愛嬌か。

いや、そもそも自分が正確に覚えていないのだから、人のことはとやかく言えまい。そんな時はもう色々と諦めて一からきっちりと説明をすることにしている。

 

 

 

この事態を解決するためにできることは次の二点だろうか。

 

①多忙ゆえの脳の処理落ち現象だと思われるため、タスクの総量を減らすことで脳のメモリを解放してあげる。

 

②自分の脳みそを過信せずに、メモをこまめに取るなど記憶を外部化する仕組みを作り出す。

 

 

①はちょっと厳しい。今でさえ仕事を厳選し、極限まで効率化を図り、なんとかかんとかこなしている状況なので、これ以上削ることは物理的に不可能であると思われる。

となれば②になるわけだけれども、これも結構やっているつもりのなですが、肝心のメモを取ることを忘れたりするからなんだろう、これはもうダメかもしれません。

 

 

ただ、忘却があるからこそ新たな事を考える余地が生まれるということもまた事実。

その効用を忘れることなく、これからも適度な忘却を目指していきます。

 

思考の整理学 (ちくま文庫)

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