ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

学校という名の「釜茹で地獄」、そこから逃げ出すのは誰なのか

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立教大学経営学部の中原淳先生のブログを毎日拝読しているのですが、先日、とりわけ印象に残るエントリーがありました。

 

「組織のなかで死んでいくのは『ゆでがえる』ではなく『オタマジャクシ』であるという『ホラームービー的現実』!?」と題されたそのエントリー、非常に示唆的です。

 

www.nakahara-lab.net

 

【目次】

 

 

変化に気付かず緩慢な死を迎える「ゆでがえる」

 

鍋の中に放り込まれたカエルは、その後少しずつ水温を上げられると水温の上昇に気付かず、そのまま「茹でガエル」となってしまう。もし初めから熱せられた鍋に放り込まれていたら、熱さのあまりに即座にそこから跳ねだして一命は取り留めていたというのに……。

徐々に環境が変化していくと、その中にいる人間はその変化に気付くことができず、結果死に至る。

「茹でガエル」のエピソードは、「環境の変化に敏感であれ」と我々に教えてくれます。

 

ja.wikipedia.org

 

 

手も足も出ない「哀れなオタマジャクシ」

 

中原先生はこの警句を更に一歩押し進め、「組織のメンバーがみな『緩慢な死』に向かうことはわかっていながら、ただただ持ちこたえているカエル」の存在を指摘します。そのカエルは現状に気付きながらも、「自分だけはそう遠くない未来にそこから出してもらえること」を知っている「老獪な年長者」であり「経営陣」である、とも。

 

その一方で、後に残されるのは若き「おたまじゃくし」たち。

まだまだ手も足も生えていない彼らは、為す術なく自らを待ち受ける「緩慢な死」を受け入れるしかありません。

 

これは別に目新しいことではなく、いつの時代も、どんな組織でも繰り返されてきた普遍的な現象であると言えます。

 

 

「オタマジャクシ」は誰だ?

 

一般的にこの話を聞いた後には、若手の皆でワイワイと「組織の上層部批判」となるのがお決まりコースと言えるでしょう。怒りの矛先は「危機的な現場を見限って、一人だけ安全な場所に逃げ出した年長者」へと向けられ、話は大いに盛り上がること請け合いです。

 

ただ、今回の記事で私が言いたいのはそういうことではありません。

 

状況の悪化に無頓着な無責任野郎、それは一歩間違えば我々のような「一般の教員」にも当てはまるのではないかと考えてしまったわけです。

 

学校を取り巻く現状は現在進行形で大きく動いています。学校教育を担う我々教員はその変化に敏感であるべきで、いかなる変化にも適切に対応できるだけの心構えと準備が必要になるはずです。

そうした手立てを講じないまま現状維持を続けることは、それすなわち相対的な退廃を招き、時代の要請に即した十分な教育を実践することは到底かないません。

 

どんな教育を施そうとも、生徒は三年間で自動的に卒業します。つまり、教師の側が現状に即応しようとせず、「教育改革」と言う名の面倒さから早々にリタイアしたところで、教師自身にはそんなに大きな被害は降りかかりません。

そうなれば「緩慢な死」を迎えるのは「生徒」の側ということになります。実際に被害をこうむるのは十分な教育を受けられなかった生徒であり、彼らが真の意味で「悪化する環境から逃れることのできなかった哀れなオタマジャクシ」となる、と言うわけです。

 

 

現状を「カエル」努力を

 

そんなわけで、目先を変えれば我々は「年長者に取り残される哀れなオタマジャクシ」にも、「生徒を取り残す薄情なカエル」にもなりうる可能性があります。

 

最悪の場合でも、大人は組織から抜け出して新天地を求めることができます。事実、時代の流れもそれを許容する方向へと確実に動いています。転職は珍しいことでも何でもなくなりました。

しかし、生徒はなかなかそうはいかない。現在置かれている状況に嫌気がさしたとしても、生徒は学校をすっぱりと見限ることははなかなかできません。

 

そう考えると、我々教員の果たす責任はやはりとてつもなく大きいと思うのです。

確かに教育界は激動の時代を迎えており、多忙化も加速度的に進んでいるために、時としてそのあまりの面倒臭さに途方に暮れてしまうというのは事実でしょう。でも、だからといって「自力では脱出不可能なオタマジャクシ=生徒たち」を見捨て、当たり障りない教育しかしなくなるようだと、それはもう教師であることを放棄しているも同然です。

 

誰かが変えていかなければならないし、それはやはりこの転換期に生きてしまった我々に課せられた使命なのでしょう。

生徒に「生涯をかけて学び続ける力」を授ける我々教師の側が、まずは現在直面している難関を乗り越えられるよう学び続けていかなければお話になりません。

 

せめて生徒たちが自分の力で直面している苦境から脱出できるだけの手足を獲得するまでは、教師は逃げ出さずにサポートしていかなければならないのでしょう。

そしてあわよくば、他ならぬ自分たち自身が快適に過ごせるよう、「学校」という環境を適切に変えていきたいところです。

 

 

「無力で哀れなオタマジャクシ」はもちろんのこと、早々にしっぽを巻いて逃げ出す「無責任なカエル」になるのもまっぴらごめんです。