ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

お笑いを科学する ――「面白い」は作れるのか?

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本日はR-1ぐらんぷりの放送日。
こう見えて私、結構お笑いが好きです。

 

そんな「お笑い」について、今日はちょっと真面目に考えてみました。

 

「不条理」を支配する技術


専門に研究した訳では無いのであくまでも個人的な見解に過ぎないのですが、お笑いを一言で表現するならば、「不条理のコントロール」、これに尽きるのではないかと思うのです。あらゆる不条理を効果的に相手に叩き込むところに、「面白さ」が表れる。それがお笑いの魅力だと常々思っています。


「え? そこでそういうことする?」といったように、相手の常識に対して真正面から不意打ちを仕掛けて喧嘩を売る。「こんなことはしてはならない、あってはならない」と考えている真面目な人間に、敢えてそうした禁忌の要素を込めた渾身の右ストレートをお見舞いする。そういう一種のバイオレンスがお笑いの現場では当たり前のように行われているわけです。


少しマイルドな言い方をすれば「ギャップを巧みに利用する」とでも言いましょうか。

いかに絶妙な角度から日常の世界を切り崩せるか。

いかに受け手が日常世界に抱いている幻想や期待を鮮やかに裏切れるか。

そんな高度な駆け引きが日夜行われているわけです。

 

 

子供はうんこが大好きだ

 

いかなる世においても、子どもは「うんこ」が大好きです。これは永遠不変の宇宙の真理であるといってもよいでしょう。そこをうまく利用すれば、商業的に大成功を収めることだって可能なわけです。

 

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

日本一楽しい漢字ドリル うんこかん字ドリル 小学1年生

 

 

「うひょー!こんな所にうんこが出てくるぜ~」みたいな、子供のテンションを爆上げする起爆剤として、うんこほどポテンシャルに満ちたものは無い。

(どうでもいいけど、まさかこのブログでここまでうんこを連呼する日が来るとは思ってもいませんでした。ああ、うんこうんこ。)

 

これは、「排泄物は隠匿すべきもの」という人間の本能に根ざす羞恥的感覚を逆手に取った笑い。禁忌の存在として封じられているものを、あえて日常の世界に引きずり出すことで、我々の日常を脅かす手法です。決して表舞台に現れることの許されないダークヒーローに日の目が当たってしまったような、そんな「やっちまった」感。そうした落差に我々の常識はグラグラと揺らいでしまい、その隙間に「滑稽」が生まれ、エンターテイナーはそれを「笑い」として昇華する。そんな感じでしょうか。

 

 

ギリギリを攻め続けなければならないスリル

 

ただ、これは匙加減が非常に難しい。ただ単に通常とは異なる奇抜なことをすればそれでよいかというと、そういうわけではありません。不条理が過ぎるとシュールになり、突き抜けると不条理を通り越し、単なる意味不明に陥ってしまう。


最近のお笑いのスタイルは細分化が進み、その手法は非常に多岐に渡っています。伝統的な「正統派」がある一方で、「邪道」とも呼べるような新たなスタイルが日々創出されているのも事実です。


どんな手法も、出現当初はその斬新さが評価され持て囃されるわけですが、いずれは受け手に慣れがやってきて、次第に飽きられてしまう。そしてそれを打破すべく、お笑い芸人はまた新たな芸風を開拓しようと挑戦を続けていく。

隙間産業のように、他者との差別化を図るべくニッチな分野の開拓が進んだかと思えば、そうして苦心の末生み出された手法は、瞬く間に新たな刺激を求める受け手によって徹底的に消費され尽されてしまう、ということが延々繰り返されている。そんなこんなで、終わることのない永遠のイタチごっこは続けられているわけです。

 

ファッション業界にも似た永遠に心休まらぬ構造がここにある。お笑い芸人は大変だ。

 

 

 「お笑い」の奥深さ

 

お笑いは料理に似ているとも言えます。
いかに高級な素材でも、それを調理する方法や客に差し出すタイミングがわずかでも狂うと、せっかくの素材の良さが台無しになってしまう。

同じネタであって、テンポやタイミングが少しでも狂うと、同じような結果が得られないというのはよく聞く話です。果てには「会場が温まっているか否か」という非常に扱いの難しい概念もそこには絡んできており、もはやギャンブルにも近い不確実性によって支配されていると言えます。

そうしたことをしっかりと認識したうえで、こちらで聴衆の意識をコントロールし続けるだけの技量がお笑い芸人には求められているわけです。

 

こうした点では、もちろん、学校教育にも似ている部分はあるわけです。

 学校の授業では、聴き手である生徒たちの意識をいかにコントロールできるかがかなり大事になってきます。

時には強い口調で有無を言わさず意見をズバリと伝えなければならない局面があったかと思うと、またある時には生徒たちをなだめすかしながら、よいしょよいしょと担ぎ上げ、気持ちを乗せていく必要もあったりする。相手が自分の意思を持つ人間であるからこそ、そして、そんな人間を複数同時に相手取らなければならないからこそ、教師の力量はかなり大事になってきます。


「あるあるネタしまーす」という前フリで、相手の気持ちを「共感モード」に切り替えた上で、「ありそうだけどよく考えたらありえない」という絶妙なレベルの不条理を適切に差し出せるかどうか。お笑いではそんな相手の心理を巧みにコントロールする高度な技術が必要なわです。

 

この辺りは手品にも似ている気がする。
マジシャンに求められているのは、何も手先の器用さだけではありません。いかに聴衆をミスディレクションさせるかがかなり重要な要素となっています。

派手で奇抜な服装や舞台装置、大ぶりで思わせぶりな動きなどは、その実全てが観衆の意識を巧みに手品の種から遠ざけるための意識誘導です。相手の心理を巧みに誘導し、そこで生み出した隙に会心の一撃を叩き込む。

手品がまるで摩訶不思議な魔法のように映るのは、そうしたマジシャンの不断の努力とテクニックの結実した結果によるものと言えるでしょう。

 

となればボクシングなどの格闘技にも似た要素を見出すことは可能でしょう。

フットワークの巧みさやパンチの速度は、もちろん相手を制する上で大事な要素であるわけですが、これとてやはり大事なのは「心理戦」の要素。熟練者同士のファイトには、絶え間ないフェイントの応酬が繰り広げられているわけで、これは「心理の隙」の奪い合い。数舜の判断の遅れが命取りであり、ファイターにはフィジカルの強さはもとより、メンタルのタフネスさも非常に重要なファクターであるわけです。

 

ともかく、「お笑い」を、舐めてはいけない。これほど表面上の滑稽さとは乖離した高度なテクニックを要する活動も珍しい。

 非常に奥深い世界がそこには広がっているわけです。

 

 

「お笑い」は低俗?

 

お笑いや諧謔の精神って、世間では結構低く見られがちです。

「お笑い芸人になる」と子供が言った時、親は必ずと言ってよいほど反対するものです。その理由としては、「業界で生計を成り立たせる難しさ」といったことではなく、「お笑いなんて低俗なものは許さない」という理由で反対するケースが多いのではないでしょうか。

この「お笑い」を世間的なステータスとして低く見積もる傾向が、世の中では結構支配的なのではないかと思うのです。

 

しかし、「お笑い」とは本来は高尚なもの。この国においてもその歴史は深く、一つの文化を成り立たせるほどの存在なわけです。
単純な娯楽の枠には収まり切れない部分もあり、ある時は体制に反する風刺として力を発揮するなど、人々の生活に深く根差した一文化としての地位を確立しているわけです。
コミュニケーション力の重視される現代。他者との駆け引きにおいてユーモアは圧倒的な効果を発揮する飛び道具たりうるわけで、決して侮ることはできません。

 

 

生徒にもぜひユーモアの技術を教えたい

 

物語やエッセイ、プレゼンテーションの作成・発表といった活動には、「ユーモア」の要素が重要であると常々考えています。


とはいってもそれは、自分の主張の自信の無さを誤魔化し、煙に巻こうとする「逃げ」のユーモアではありません。受け手の心を柔らかくし、自分の主張を効果的に通すための、そんな「攻め」のユーモア。これを駆使できるようになれば怖いもの無しです。世の「演説上手」と呼ばれる人達は、必ずと言って良いほど自分の話の中にユーモアを散りばめているものです。

授業において、これをいち「技術」として伝授することができればなぁと日々画策しています。これほど彼らにとって心強い武器も無いのではと思うのです。

 


「お笑い」という分野。個人的にはかなり興味深い世界であり、もっと専門的に学んでみたいところ。しかし、いかんせん他にすべきことが山程あり、そこまで手が回っていない状況です……。時間さえ許せば、芸人の養成学校とか1度は行ってみたい気もする。
お笑い芸人のネタを分析させる授業とかやってみたいよなぁ。次年度の課題ですね。