ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

先生!「いい質問」って何ですか?

「ほう、それは興味深い質問だ」

 

やすてるは読みさしの本を脇に置き、蓄えた口髭を満足そうに撫でつけながらこう答えた。

 

「ところで、君、『 汝が深淵を覗き込む時、深淵もまた汝を覗き込んでいるのだ』という言葉を知っているかね?」

 

少年は肩を竦めてみせる。しかしその目には相変わらず好奇心の光が爛々と輝いているのを、やすてるは見逃さない。
「納得のいく答えを教えてくれるまでは帰らない」。少年の瞳はそう語っている。両者の間で幾度となく繰り返されたやり取りは、既に言葉を必要としない境地に二人を導いていた。

 

「まったく、仕方がないやつだな」

 

冷たくあしらうような言葉とは裏腹に、やすてるはニヤリと笑う。
今夜も、退屈という名の乾きを潤すべく、五月雨のように物憂げな、長い講義が幕を開けた。

 


とまぁ、なんかこう変化球的に書き始めてみたものの、面倒くさくなったのでいつも通り行きます。
よく考えたら口髭とか生えてなかった。

 

「テスト」はみんなの嫌われ者?

さて、現在勤務校においては学年末考査真っ最中です。
「授業もないしのんびり読書でもしようかな」と思って意気揚々と出勤するのですが、したかったことは何一つできずに気付けば19時を迎える、といういつものパターン。私の周囲だけ時空歪んでない?


ところで、「テスト」というものに対して好意的な思い出を持っている人はほぼ皆無であると言ってよいのではないでしょうか。
鬼のようなテスト範囲に、修羅のような難解な問題。無慈悲な採点の末に突きつけられる現実。羅列された数字の大小を周囲と比べては肩を落とす。
そんなやりとりが強制的に十二年間も繰り返されるわけです。嫌いになるなといった方が無理な話でしょう。

 

「一方的に試される威圧感」、テストには何か物言えぬ不快さがつきまといます。

 

「試す」行為の双方向性

しかし、「試す」ということは裏を返せば「試される」ということです。


そもそも授業計画は生徒の能力を十分に引き出すよう計画されていたのか。
テストの問いの立て方は適切だったのか。
明確な意図の元での作問ができているのか。
評価を与えるに際して、適切な尺度を準備できたのか。

 

などなど、問いかける側にも、省みるべき点はたくさんあります。

「どれ、難しいテストを作って評価してやろう」という高圧的なスタンスでは、「テストのためのテスト」つまり、ただこなすだけのテストになってしまいがちです。
そんな無責任な奴は口髭が生えてしまえばいい。

 


というわけで、テストとは教師が生徒の学習定着度を「試す」という側面と、適正な目的と手段で問いを立てられているかを「試される」側面を備えているわけです。

これってまさに、ニーチェの「汝が深淵を覗き込む時、深淵もまた汝を覗き込んでいるのだ」的な考え方だと思うのですが、いかがでしょう?

 

そしてこれは何も教育現場に限った話では無く、私たちが生きていく中で必要な考え方だと思います。

選挙だってそうでしょう。18歳に選挙権が与えられましたが、選挙のたびに生徒には「選挙で試されているのは立候補者ではない、投票する国民の側なのだ」と言っています。

 

口先だけの甘いマニフェストに踊らされていないか。

目立つ部分だけを見て、安易に選択していないか。

選挙後までを見据えた長期的な視座でもって候補者を分析できているか。

その投票に、信念は込められているのか。

 

といったところでしょうか。

特定の誰かに一票を投じるという行為には、それだけの重さがあることに気付いてほしい。

 

 

それって本当に「いい質問?」

「問い」といえば、池上彰がテレビ番組で発する「いい質問ですね」が一時期流行しました。
そして、それとは関係なく、「いい質問ですね」は教員がつい発してしまいがちなフレーズです。

 

ただ、大抵の場合はこの場における「いい」とは、「教員が望んでいた 」と同義です。
そこに気をつけないと、「生徒の気付きを引き出す」という本来の目的から離れ、単なる誘導尋問で終わってしまう、ということもしばしば起こりえます。

授業における発問の重要性は教員ならば誰もが知るところ。そして、それを適切に運用することの難しさに、我々は常に悩まされています。

 

質問力の向上についてはこの本が詳しいです。

 

たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」

たった一つを変えるだけ: クラスも教師も自立する「質問づくり」

 

 
また、私の心酔する作家である森博嗣も、大学教授時代から「質問する力」を重視しており、講義の最後には学生に質問を書かせて、それで評価を行っていたそうです。

 

臨機応答・変問自在 ―森助教授VS理系大学生 (集英社新書)

臨機応答・変問自在 ―森助教授VS理系大学生 (集英社新書)

 

 

人はどう答えるかではなく、何を問うかで評価される。

 

問うことで学問への姿勢が評価できる。問う学生は、口を開けている雛鳥のようなもので、そこに餌を与えるのが教師の役目だと思う。口を開けていない者には、与えることができない。無理に与えることは、むしろ逆効果でさえある。教師から学生へ、親から子供へ、一般に、受け手が口を開けて求めている以上に、情報が流れ、物が与えられていないか。 それが教育だと勘違いしている人も多い。少なくとも学問の教育は躾ではない。与える側は、受け手が欲しているかどうかを見極めることが大切だ。学生の質問は、受け手の姿勢を観る最も単純なサインとなるだろう。

 

大学の講義とはいえ、こうした実践を三十年以上前から行っているという事実。やはり凄い。

というか、この本自体が二十年近く前の物だけれども、今読んでも新しい発見がありそうです。これを機に読み直してみるか。

 

 

評価を過剰に恐れて動かなければ意味が無い

ということで色々と述べてみましたが、相手から評価されることを恐れてしまうがあまり、質問が媚びるような内容になってしまったり、必要以上に縮こまってしまっては本末転倒です。
時には恐れずに、自信をもって踏み出す勇気も必要でしょう。

 


つまり何が言いたいかって?
愚問ですね。

 

私は「どんなふうに」とか、「どんなものを」とか、そのようなくだらない評価をすることは一切致しません。

だから、誰かチョコレートください(切実)。