合格の影に不合格あり
今週は国公立大学を中心に、怒涛の入試結果ラッシュだった。気の抜けない日々が続いたわけで、土曜も夜になってようやくほっと一息ついた瞬間に、どっと疲れが押し寄せてきた感がある。別に3年生のクラス担任をしているわけではないけれど、現代文も古典も三年間教え続けてきた身としては、本当に発表当日は気が気ではなかった。
下馬評通り無難に合格を勝ち取った者、逆に決して良いとは言えない合否判定から大逆転で合格を決めた者、残念ながら力及ばず不合格であった者。本当に結果は様々である。正に悲喜交々といったところか。
毎年この時期になると思うのだけれども、今目の前に示されているこの結果が現実であり、全てがこちらの思惑通りに進むほど世の中は甘くない。毎度のことながら人間の無力さを嫌というほど思い知らされる瞬間である。
合格を掴み取れなかった原因の一端は我々教員にも確実に存在するため、本当に申し訳ない気持ちでいっぱいになる。後悔するのは生徒だけではない。教員もまた己の行ってきた教育の妥当性を振り返り、もう取り返しのつかない過去に思いを馳せ暗い気持ちになってしまうわけである。
後悔しない人生などない
後悔の念は、未練の大きさに比例する。「あの時こうしていれば」という思いが強くなればなるほど、それは「もう取り返しがつかない」という時間の不可逆性に補強される形で、我々の心を大きく蝕んでゆくものである。
概して、人間の心理は「利益」よりも「損失」の方を大きく見積もる傾向にある。
宝くじの当選によって手にした一億円を詐欺被害で全て失ってしまった場合、数字上は差し引きゼロで、得をしていなければ損もしていない。しかし、人間の心理は「損失」に大きな価値を与えることで、結果、後悔の念のほうが大きく表出してしまう。人間の心理は、かくもネガティブなものである。
また、私たちはいつだって何かを選択しながら前に進んでいる。
「何かを選ぶ」ということは、裏を返せば「何かを捨てる」ということ。二者択一のうち、どちらも選ぶことができるのならばそれに越したことはないが、大抵はそんなわけにはいかない。生きることの半分は、捨てることによって成り立っているといってもよい。
そう考えると、「生きること」は「後悔すること」と殆ど同義であるといってよいのかもしれない。
どうせなら、前向きな後悔を
ただ、その選択権はいつだって自分が握っているべきなのだ。決して他人に譲り渡してはいけない。
他の誰のせいでもない、自分自身の決断によって捨てる、その意識が大切だ。「意識的」に捨てること。これができるかできないかで、後悔の度合いに大きな差がついてしまう。
大事なのは、「選ばなかった」という事実と、それがもたらすであろう負の結果を、その場・その瞬間で前倒しで受け取ることで、あらかじめ処理すること。それを怠ると、まるで時限爆弾のように時間差で大爆発を起こしてしまい、心に取り返しのつかない大怪我を負うことになる。
あらかじめ予測しうる暗い未来を、すっぽりと包み込んでしまえるほどの包容力でもって決断を下すこと。事前にできることはそれぐらいしかないだろう。これは、ありきたりな言葉で言えば、「覚悟」を固める、ということである。
「後悔しない人生」を送れるか否かは、毎回しっかりとその折り合いがつけられているかどうかにかかっているといえるだろう。
自分で気付かなければ意味が無い
結局のところ、大切なのはこうしたことに、いつ「自分の力」で気付くか、である。
我々教員は、学校教育の場において「後悔しないような生き方をすべし」ということを早い段階から幾度となく生徒に伝えようとする。しかし、その受け取り方には大きな差があり、十代前半の早い時期に気付く人もいれば、それこそ一生かけても気づかない人だっている。
重要なのは、それぞれの経験から主体的に何を学び取るか、である。たとえ「失敗」したからと言って、決して腐ってはいけない。「失敗」は人格を否定するものではなく、むしろ人間は「失敗」から学ぶことの方が多いとさえ言えるだろう。
今回残念ながら不合格だった生徒たち。後期試験に賭ける者もいれば、浪人を決意する者もいる。願わくば、この経験から自分の人生の指針となるような大事なことを学び取り、これからの人生の大きな飛躍に生かしてほしい。