ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

猫が先か、神が先か

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さて3日目。
昨日の内容は改めて読み返すと中々に硬い。控えめに言ってガッチガチである。ラーメンで言うとバリカタ。アイスで言うとあずきバーだ。もっと肩の力を抜いたほうがいい。

そこで今日は少しほぐして、やや柔らかめの話をしようと思う。とは言うものの、あまりにふにゃふにゃだと締まりがない。
ふにゃふにゃと知性の両立。これが今回のテーマ。ではいってみよう。

 

 


私は猫が好きだ。
皆さんは猫が好きであろうか?
私は大好きだ。愛慕にも近い感情が常に私の中に渦巻いている。


だがしかし、私は実際に猫を飼った経験が乏しい。
幼稚園児の時に1度、小学校低学年の時に1度、計2回飼ったきりである。
にもかかわらず、なぜこれほどまでに「猫が好き」が強烈に私の潜在意識に刷り込まれているのだろうか。少し冷静になって考えてみたい。

 

私の生活にはあらゆる部分で猫が溶け込んでいる。
気が付けば、猫グッズが身の回りに増えているし、ふとした瞬間に猫のことを考えている自分がそこにいる。猫のことを考えない日は一日たりとも無いといってよいだろう。これはもはや恋である。

 

そんなわけで、私の意識の中には常に猫がうろつきまわっているのだ。
私が仕事に忙殺されてどす黒い負の感情に自我を飲み込まれそうになっている、そんな非常事態にも、私の頭の中の猫はそんな私のことなど一切眼中になく、陽だまりの中でお気に入りのおもちゃと戯れながら喉をゴロゴロ鳴らしている。
夜もすっかり更けたころ、私が布団の中でまどろんでいるまさにその瞬間にも、私の頭の中の猫は障子をビリビリに破ってしまい私の頭の中の飼い主に怒られている。そして怒られているというのに、当の本人は素知らぬ顔をしてのんきにあくびをしたりなんかしている。そんなこんなで私の頭の外の私は寝不足に悩まされる。

 

かれこれそんな状態が三十年近く続いているのである。思えば猫とともに駆け抜けてきた三十年だった。これはもはや、「猫は私であり、私は猫である」といって全く差し支えない状態であるといってよいだろう。


ここにきて我々は、猫にとある姿を重ね合わせることができるのではないか。
そう、神である。


我々人類は古来より自らの救いを、罪の浄化を、種の繁栄を、願いの成就を、超越的存在である神に託し、神を崇拝の対象として、信仰の象徴として崇め奉ってきた。

 

もはや、私にとっての猫とは、正にそうした神聖を担う存在なのだと言って過言ではないだろう。

猫に「ひれふすにゃ」とでも言われようものなら、私はすべての自我を猫のために差し出す自信がある。

 

ここに来て猫とは1つの概念となる。「猫とは何者なのか」という問いは自ずと宗教学へといざなわれてゆき、果てには哲学的問題へと収束してゆく。
もはや猫の何たるかを考える必要はない。猫は猫であり、かつ猫以外のすべての事象もまた猫の導きの下にある。猫の猫たるゆえんはそれが猫であるという以外の説明を持ちえず、猫もまた、猫であることに一切の疑念なく、無自覚のうちにもその猫性をいよいよ遺憾なく発揮してゆく。嗚呼、猫万歳。猫万歳。

 

 

もはや自分でも訳が分からなくなってしまった。
とにかく、深く考えるまでもなく私は猫が好きなのである。もうそれだけ伝わればいいと思います。