さて、今日は「後進を育成する」というお話。
【目次】
医療マンガ において語られる、「後を継ぐ者」の育て方
『医龍』という医療マンガをご存知でしょうか。ドラマ化もされ人気を博したため、知っている方も多いかもしれないですね。
(ただ、実写版あるあるなのですが、ドラマ版とマンガ版とは随分テイストが異なります。私は断然漫画派。)
この漫画は登場人物全員が(厳密には一人例外がいるけれども)何らかの形で成長を遂げるという、人間ドラマの部分にもスポットが当てられており、非常に読みごたえがあります。
「朝田龍太郎」という天才心臓外科医は、現代医療における様々な問題と向き合いながら、人の命を救うということへの真摯な姿を見せつけることで、周囲を巻き込んで多くの人間を成長させていきます。
また、大学病院における医局内での政治闘争も一つのテーマとなっており、こちらでは助教授(まだそう呼ばれていた時代)の「加藤晶」が、悪しき伝統を引き継いで腐敗してしまっている医局の抜本的改革を掲げ、海千山千の教授陣に立ち向かってゆきます。
こうした作中人物の成長の影に、あらゆるテーマが複雑に絡み合っているのですが、最近になって特に注目するようになった場面があるので今回是非紹介したいと思います。
それは「後を継ぐ者の育成」について語られる部分。
正直、私は職場では年齢的にも経験的にもまだ若手の部類に入ると思うのですが、この漫画においてそうしたテーマが扱われるたびに思わず考えさせられてしまいます。
「成長を信じる」ということ
印象的な場面は二つ。
一つ目はとある手術中に交わされた、朝田と加藤とのやりとり。
それまでの大まかな筋はこんな感じ。
大量の血液が必要な手術なのだが、外は生憎の嵐。
研修医の伊集院は、日赤からの血液が届くのを待てず無謀にも原付バイクで血液を受け取りに行ってしまうのだが、その後交通事故に遭ってしまう。
血液の到着を心待ちにする手術室内で執刀医たちは、木原という別の医師に伊集院から血液を受け取ってくるようお願いする。
しかし、この木原は朝田や加藤とは立場を異にする政敵同士であり、そもそもこの手術の成功を快く思っていない。また、主体性を持たぬ小物がゆえに、手術中に持ち場を離れて血液を取りに行く、などという医局の統制を乱す行為などできるはずもない男である。
そうした自分の立場と目の前で消えゆく患者の命との間で葛藤しながら、木原は明確な返事をせぬまま手術室の外に出ていってしまう。加藤はそんな木原のことをどうしても信じることができない。
そんな加藤に対し、朝田は次のように切り出す。
朝田「あんたは伊集院を信じてるか?」
加藤「もちろんよ。」
朝田「あいつは腹黒い上に計算高く、いつも後悔ばかりしている――どこにでもいる普通の男だ。今だって、迷いながらグチりながら走ってるに違いねえよ。そんなあいつを、俺たちも信じているだろ。」
加藤「彼は……木原助手(せんせい)とは違う……!彼は成長したわ!!」
伊集院と木原は違うと主張する加藤。伊集院は成長したが、木原はそうではないと力説する。
そう、伊集院という研修医はこの『医龍』というマンガのもう一人の主人公と言っても過言ではない。それほどまでにこの伊集院の存在感は大きく、作品を通して感動的なまでに素晴らしい成長を遂げる。
そんな伊集院も、作品の序盤では権力に決して逆らわず保身を第一にする、といった、まさに「平凡」を象徴する医師そのものだったのだ。
しかし朝田や加藤、その他の患者の命のために懸命に戦う人たちとの出会いが伊集院を大きく変えてきた。作品中盤以降に顕著に現れる彼の好印象な人間臭さは、読者の誰しもが認めるところだろう。
そんな伊集院に対し、加藤がこのように肩を持つのも当然のことである。
だが、そんな加藤に対し、朝田はこう切り返す。
※『医龍』(永井明原案、吉沼美恵医療監修、乃木坂太郎作画)16巻より
朝田「思い出せよ。成長したから信じたんじゃない。成長する事を、信じたんだ。
俺は、いつまでもここにはいない。俺が去った後、今度は誰に、メスを握らせるつもりなんだ? 平凡で未熟な医師に期待することを忘れて――誰にバトンを渡していくんだ!?
誰も、永遠に同じ場所にはいられない。俺も、あんたもだ。」
非常に熱い。何度読んでも痺れる場面である。青年誌とは思えぬ、医療漫画とは思えぬ、灼熱の熱さがこの場面には満ち満ちている。
ここで語られるのは「成長を信じる」という、それこそ教師にとっては大学の講義で学ぶような、教育における基礎中の基礎である。もはやそれは特別な技術ですらなく、単に心のありようのことなのだ。
しかし、これが社会人としての「組織」という場において、果たして正常に共有されている概念と胸を張って言えるだろうか。
全員が手厚く教育を受けることを前提として成り立ち、かつ、実際に全員がその機会を有している(はずの)学校と、実際の社会は違う。
多忙ゆえの悲劇なのか、研修・教育の場が足りてないという声は、今の世の中ではよく耳にするところである。
朝田は、誰が見ても優秀とは言い難い木原に対しても成長することへの期待を忘れない。自分がぶっちぎりの技術を持ち、人の助けなど必要のない腕前を持った天才外科医であるにもかかわらず、である。
そこには「バトンを渡す=自分のいた場所を、担ってきた仕事を、後に続く誰かに継承する」という未来へのビジョンがある。どんな人間でも「永遠に同じ場所にいられない」という無常観にも似た冷静な視線がそこにはある。
「天才」の苦悩。人はいずれ老いてゆく
そしてもう一つ。
天才的な腕を持つものの、どこか自信過剰で他人を見下すような言動ばかりする(これにもきちんと理由はあるのだが)麻酔科医「荒瀬」と、そんな荒瀬さえ畏怖する麻酔の権威「バウマン」。
バウマンは病を患い無理のできない体であり、薬を服用することでなんとか現場に立っている状態なのだが、ある時ついに手術中に発作を起こしてしまい、手術を失敗させてしまう。
その後バウマンの病室を訪れた荒瀬に、バウマンは諭すようにこう告げる。
「君は、君の技術を継ぐ者を育てているか? 僕のように、自分の才能だけに頼って生きていないか? もしそうなら、今からでも誰かを育てなさい。僕は気づくのが遅かったが、君はまだ間に合う。後を任せる者がいないと、いつまでも、君から才能が去ったあとも、惨めに『天才』を、演じ続ける羽目になる。」
※『医龍』(永井明原案、吉沼美恵医療監修、乃木坂太郎作画)22巻より
この作品には「天才と凡人」というテーマも内包されている。
作中ではしばしば、天才と呼ばれる医師たちはその他大勢の凡人たちの憧れの的として華やかに描かれる。
だからこそ、そんな天才が時折見せる「天才であるがゆえの苦悩」に読者である我々は強く惹きつけられるのかもしれない。
「才能が去ってしまう」という、悲観的な自己分析がその孤独さを一層際立たせている。天才は常に天才でい続けられるわけではない、いつかは衰え、誰かに後を託さなければならない、というメッセージがそこには込められている。
いかにしてバトンを繋ぐか
これは何も天才に限った話ではないだろう。もちろん私も、「天才になろう」などと分不相応な夢を持とうとも考えない。
ただ、私たちは経験を積み重ねる中で誰しもが何かを学び、それを糧に成長してゆく。そうする中で、いずれは大きな権限と責任を与えられて、挫折と成功を繰り返すことで、更に多くのノウハウを蓄積させてゆくこともあるかもしれない。
そんな時、人はどうしても上を見続けてしまうのではないだろうか。期待に応えるべく、あるいは自らの成長が楽しくてしようがなく、どんどん上を目指し、未来の不安をかき消すように仕事に没頭しながら先に進んでいくのかもしれない。
もし、自分がこれから先そんな状況に置かれた時、朝田のように後から続く者への期待を失わずにいれるのか。または、バウマンのように「いずれは自分の中から才能が去ってしまう」と冷徹に自己を客観視できるのだろうか。
この漫画を読むと、ふと、そんなことを考えてしまうのです。
【関連記事】