ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

「分かりやすく説明する力」を鍛えよう

ひたすらテストの採点をする一日。


生徒たちが書いた答案を採点していて感じるのは、「記述問題」が本当に苦手なのだな、ということ。分かりにくい文章を平気で書いてくる。

いや、どちらかと言えばこの状況は、彼らに国語を教えている私に非があるのであり、生徒を責めるのはお門違いだ。これは結局、私の「記述力を育てる力」の無さなのである。
どうやってその力を鍛えてあげることができるのか。これが非常に難しい。無い知恵を絞る日々はまだまだ続く。

 

 

 

論理的な説明になっていない


生徒の解答で「一応日本語での文は成立しているけど、これでは伝わらないよな」となっている文章は、大抵は論理構造に欠落が生じている。因果の不成立とでも言おうか。

 

「AはBである。BはCである。ゆえにAはCである。」という三段論法に対し、「A=Cとなるのはなぜか?」と問われたとする。
分かりやすく説明するためにはBを登場させる必要があるのだが、それができていないというわけである。

 


一つ例を出してみよう。(※長いので読み飛ばし推奨)

 

心理テストにこのような問題がある。

 

「飲み始めたカクテルが、気づいたらグラスちょうど半分になっていた。これを見て、あなたはどう思いますか?」

 

これは「まだ半分も残っている」と考える楽観主義者と、「もう半分しかない」と考える悲観主義者をより分ける問題として有名だ。


楽観主義者は、その喜びが何らかの言動として現れるだろう。やや大げさだが、嬉しさのあまりガッツポーズをとるかもしれない。

 

そこで、生徒に「なぜガッツポーズをしたのか」を問うてみる。


すると、因果を正確に捉えられない生徒は、「ガッツポーズ」の理由の説明として「グラスに半分カクテルが入っているから」という事実そのものを挙げてしまうが、この解答は論理が飛躍している。
ここではワンクッションとして、当該の状況がこの人物に「喜び」という感情をもたらしたこと(=この人物が楽観主義者であること)の説明が欲しい。そこまで来て初めて「ガッツポーズ」に自然と繋がるのである。


「この人物が悲観主義者であり、必ずしも喜ぶとは限らない」という可能性が残っていては、万人に納得のいく説明とはなり得ない。

 

 

Aは「グラスにカクテルが半分入っている」という「事実」
Bは「楽観主義者」がその事実から喜びを感じた、という「心情」
Cは、そうした心情によって外に現れた「言動」

といったところか。

 

そこまで考えると、分かりやすい説明は、

 A「グラスに半分カクテルが入っているから」

ではなく、
A+B「グラスに半分入ったカクテルを見て『まだこんなに残っている』と嬉しくなったから」

 

ということになる。

 

 

 

相手の推し量る力に依存すると、分かりやすい説明は生まれない


1番厄介なのは、説明する側が「別に言わなくたって分かるだろう」と考えてしまっているケースが多々あるということ。
そうなると、もうこれ以上の改善は望めない。
きちんと順を追って説明すべき事項を、自分勝手な判断によって「自明」のものとしてしまっていては、伝わるものも伝わらない。


「あなたが考える当たり前」は、必ずしも「他の誰かにとっての当たり前」ではない、ということは生徒に何度も話すのだが、なかなか自在に使いこなすのは難しいようだ。

 

また、当の本人が「説明した気になっている」場合もまた厄介である。

 

いずれにせよ、「主観」と「客観」の弁別が不十分である、という傾向が強い。
一旦「自分」から離れ、「他者」を意識しながら冷静に頭を冷やすことが大切だ。

 

 

 

「客観の目」を持つ大切さ


「他人に対して分かりやすく(伝わりやすく)書く力」とは、その実「客観的に自己点検する力」であると言える。
個人的な感覚だが、「書く力」よりも「自身の文章を冷静に読む力」の方が重要ではないかと思えるほどだ。


これは、絵が上手い人間にとっては、精密に動かすことのできる指先よりも、正確に位置関係を認識できる目の力の方が大事である、という現象に似ている。

 

野球選手が時速150キロ以上の剛速球を打ち返す際にも、腕を始めとする筋肉はもちろんのことだが、実は胴体視力がかなり大きな役割を果たしている。


また、音痴の原因が、発声云々以前に実は音程を正しく聞き取れない耳の方にある、という現象にも同様のエッセンスが見て取れる。

 


「書く」の前に、「読む」力を鍛えることの大切さ。
これに気づかなければ、いくら数をこなしても、伝わる文章は書けるようにはならないのではなかろうか。最近そう思うようになってきた。

 

 

 

「事実」と「考え」の区別

 

ということで、本日の一年生の授業では、もう一度原点に立ち返って「事実」と「考え」を切り離して文章を読む必要があることを再確認した。


参考にしたのは野矢茂樹の『大人のための国語ゼミ』。

 

増補版 大人のための国語ゼミ (単行本)

増補版 大人のための国語ゼミ (単行本)

 

 

「大人の」と銘打っているけれども、理論的な部分から丁寧に説明してくれているので、高校生にも十分理解しやすい内容になっている。

 

「事実」と「考え」の違いや、「考え」は更に「推測」や「意見」に分けることができるといったこと。主張に対してどのように根拠を示していく必要があるのか、など、教えながら自分自身も学ぶことはとても多い。

  


理論と実践は両輪。バランスが崩れると真っ直ぐ走れなくなってしまうので、今度はなるべく多くの実戦を積ませていく必要がある。

読ませる文章を精選する作業に入らねば……。

 

記述の力を身に着けさせるのは本当に難しい。

それだけにしっかりと準備をして、手探りであっても確実に生徒に力をつけさせていきたいところである。

 

 

※この文章が「分かりにくかった」という見事なオチがついていたらすみません。精進します。