大学入試も佳境を迎えつつある。
センター試験後は、推薦入試のために面接練習をする生徒がちらほら居たが、もうすっかり落ち着いた。毎年のことながら、面接の練習をするのもなかなか一苦労である。
ところで、面接指南本などでは、よく「あなた自身を動物に例えたらなんだと思いますか?」という例題が挙げられている。
もしそう問われたら、私は迷わず「ネコです」と即答するだろう。
いや、何なら「私にはネコの血が流れています。むしろ私が猫です」ぐらいは言ってやるだろう。キラキラした目で。
面接会場を支配する「やべぇ奴が来た」という空気。これは「私の戦闘力は53万です」を遥かに凌駕する「やべぇ度」に違いない。想像しただけでもゾクゾクする。
これだけ長い歴史があるのだから、我が一族を辿っていけば絶対どこかに猫がいるはずなのだ。
明治以降はちょっと雰囲気的に厳しいだろうが、江戸時代とかならまだギリいけると思う。人間に化けた化け猫とのワンナイトラブとか、なんかそんな感じの浪漫溢れる摩訶不思議な現象があちこちで頻発していてもおかしくないだろう。そんな空気が江戸という時代にはある。江戸時代をなんだと思っているんだこいつは。
ともあれ、この手の質問が実際に大学や企業でなされているのか否かはともかく、これはなかなかにユニークな問いである。
「自分自身の特性を把握していますか」という【客観的な自己認識の能力】と、「その特性を他の生物との類似性で説明できますか」という【具体と抽象を使い分ける能力】という2つの力を同時に測定できるハイブリッドな質問と言えるだろう。意外と奥が深い。
さて、以下、私が自分を猫の血族であると自認する理由について述べてみようと思う。
勘のいい読者の方はもうお分かりだろう。今日はもう真面目なことを書く気力が無い。
色々あって疲れているのである。
これ以降の内容に、皆さんの人生に役立つ内容は何もないことを、今ここで他ならぬ私が保証する。今お使いのそのデバイスでYahooニュースでも見る方が、遥かに有意義だ。
根拠①「打ち解けるまでのハードルが高い」
慣れるまでは警戒心バリバリだが、打ち解けるとデレデレになる。そんな猫的要素が私にはある。
このブログでは定期的にこんなふざけたことを言っているが、職場では滅多にそんな「おふざけモード」にスイッチは入らない。人間と対峙する時は、「この人ならどこまで本当の自分を解放できるのか」を常に息を潜めて品定めをしている。
私からはよく「話しかけるなオーラ」が出ているらしい。全く自覚してはいないのだけれども、どうもそうらしい。
これは理想的な猫的要素であると言える。「人間なんて興味ありません」的ツンツン要素。猫検定準1級と言ったところか。
本当は喧嘩中の興奮した猫のごとく「ギャフベロハギャベバブジョハバ」とか言って本能のままに暴れ回りたい時もあるのだが、決してそんなことはせずにツーンとお澄まししていやがる。そんな男なのである。
猫を被るとはよく言ったものだ。
根拠②「徹底した夜行性」
夜が大好きだ。いつまでだって起きていられる。
逆に朝は大嫌い。割と本気で、毎朝「あーあ、世界滅びねぇかな……」と思いながら出勤している。もはや憎悪である。
そんなこんなで、午前中は大抵ふにゃふにゃしている。それはもう見事なふにゃふにゃ具合だと我ながら思う。
だいたい正午過ぎくらいから徐々に目が覚めてきて、17時の終業のベルとともに完全にスイッチが入る。人間基準でいけばこの覚醒は遅すぎるが、猫基準でいえばむしろ丁度良い。我々は日が落ちてから本領を発揮するタイプの生き物なのである。
朝の出勤時間を1時間遅らせてくれたら、その分残業を3時間してもいい。割と本気でそう思っている。
根拠③「狭いところ大好き」
押し入れの中とかが大好きだ。
根拠④「寒いの嫌い」
コタツ大好き。
根拠⑤「飽きっぽい」
飽きました。
来世は猫になろう。
なむあみにゃぶつ。