ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

人間の思考は鮮度が命、放っておいたらあっという間に腐ってしまう

何かいいアイデアを思い付いたとき、「これは後で使えそうだから、また必要な時に具体的な形にしよう」と思って大事に温めていると、いざその時になって取り出してみてもなんだかしっくりこないことがままある。

ブログの記事然り、授業のネタ然り、ひらめいたその瞬間は物凄いことを閃いてしまったという絶対的な自信があるのだけれども、大抵時間が経ってから改めて意識してみると、全然大したことではないように思えたりする。

これが寝る前の布団に入っている時なんかだと顕著に表れてくる。もう一晩明かしたら夢想はおしまい。なんとも不思議なものである。

 

 

そんなこんなで、思考のライブ感は非常にデリケートなもので取扱いが難しい。

その場その時の熱と言おうか、勢いと言おうか、ともかく言語化の難しい何かがそこには厳然と横たわっているように思えてならない。感覚に寄る部分が大きく、分析の仕方を一つ間違えると途端にそのアイデアの輝きは色褪せてしまうために、まるで流れ星をカメラに収めるが如き困難さを孕んでいる。

 

 

少しでも新鮮な状態でアイデアをストックしておきたいために、閃いたことは極力メモをするように心がけている。今の時代は便利なもので、スマホのメモ機能を使えばどこにいても記録をつけることができる。入浴時以外はスマホと共に生活しているため、アイデアをメモし忘れることは殆ど無いと言ってよい。(ただ、いいアイデアというものはえてして入浴時にやってきたりする。のび太君も驚きの、とんでもない破廉恥な奴である。)

 

ただ、ここでも注意しておかないといけないのは、後になってそのメモを見た時に「?」となってしまうことが往々にしてあるということだ。

自分で書いたくせに、自分で何を書いているのかが理解できないことがそれなりに起こる。(いや、思い出せない、の方が適当だろうか)

やはりこれも「閃き」のライブ感に大きく影響を受けている部分であり、「文字」として固着された密度の薄い情報では、五感がフル稼働していた当時の状況全てを思い出すために必要な刺激にはなり得ない。全てを言語化できるようなアイデアならば、そもそもそれは大したアイデアではないはずであり、メモを取るまでもないはずだ。

 

 

最近は多忙のせいなのか、はたまた老化のせいなのか、記憶を保持する力の低下をひしひしと感じている。もちろん、メモも駆使しながら悪あがきをしているわけだけれども、前述の通りメモも万能ではない。(あるいは、メモを使いこなせていない。)

 

 

人間の記憶のメカニズムが解明され、情報技術のさらなる革新が起こった暁には、まるで冷凍庫で保存するかのごとくあらゆる周辺情報まで含め「鮮度そのまま」でまとめて記録してくれるサービスなんかが誕生するのだろうか。

「忘れることができる」のが人間のいいところではあるけれども、忘れたら困ることもあるのが人間社会の真理でもある。是非ともそんなサービスが生まれてくれたら手を借りたいところである。