ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

「やりたくないから無くす」ならば教育は要らない

勉強は「やりたいか否か」と問われたら、大抵が「やりたくない」となるはずである。夏期補習も終わったため、簡単にアンケートをしたところ、「補習をしたくない」というスタンスの回答が散見された。

 

ただ、「補習に意義を感じるか」という角度で問いを作ると、こちらは「感じる」と答える割合が高くなっていた。つまり、「意義は理解できているがやりたくない」という状況の生徒が一定数は存在しているということになる。なんとも複雑な自己認識である。

生徒に勉強をさせるのには骨が折れるものであるけれど、この状況であればまだやりようはある。何だかんだで意義そのものを理解してくれているから、ある程度はついてきてくれるはずだ。問題は、「勉強する意義が分からない」ために「勉強をしたくない」という生徒だろう。この状態ではどれだけ補習を組み、課題を与えた所で大した意味はなく、むしろ更なる拒絶感を生み出すこととなる。

口を開けない子供に無理やり野菜を詰め込もうとするようなものである。そんな状況では、益々野菜嫌いになることは目に見えている。野菜を食べるメリットを理解させるか、思わず食べてしまいたくなるような調理法や提供手段の工夫がそこには求められる。

 

良くも悪くも最近の子は賢い。たとえそれが屁理屈であろうとも、何らかの理屈をつけて自分の「したくない」に正当性を持たせようとする。

良くも悪くも最近の教師は弱い。昔なら生徒の意に反して無理やりこちら側のいうことを聞かせるだけの権力行使を社会から容認されていたが、今はそれは単なる体罰となっている。

こんな時代だからこそ、生徒の自発的な行動を促すだけの理論と、それを適切に伝えるだけの話術の持ち合わせが必要となる。

 

 

生徒に限った話ではなく、これは大人の世界でも同じはずだ。

「仕事」は面倒くさいものである。なるべくならばしたくないと考え、実際に「したくない」と主張する人さえいる。ただ、だからといって全て撤廃できるのならばそんなに楽なことはないだろう。

その仕事の「意義」を理解しているかどうかの有無で話は随分と違ってくる。「やる意義」が分からない仕事であれば、「したくない」となるのも無理はないのかもしれない。時代遅れな旧態依然とした仕事が生き残り続けているのならば、それは適切に葬ってやる必要があるだろう。あるいは現在に則した形で転生させてやるべきだ。

「意義を理解していない」状況であれば、安易にその仕事を無くすのは早計である。前任者から「手法」のみならず「その仕事を行う背景」まで含めて適切に引き継ぎを受ける必要があるだろうし、今現在その仕事に取り組んでいる人々の間でそれはつねに問い直し続けなければねらない。

 

 

「補習」にせよ「仕事」にせよ、無くしたあとにそれを元に戻すのはなかなかに労力が要る。その場その時の感情に支配されて突発的に消してしまわぬよう、慎重を期したいものです。