ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

肉体を支配するのではなく、頭脳を育ててやる

怒涛の夏期補習期間が終わったかと思えば、あっという間に二学期が始まり体育祭の練習が始まる。

補習期間は頭脳労働で頭を酷使したかと思えば、今度は肉体が悲鳴をあげる番である。

 

この歳になると疲れは溜まりやすく、そして回復も遅い。高校生の時は鍛えていたけれど、今やその頃のバイタリティは見る影もなく、老体にムチ打ちヒィヒィ言いながら体を引きずり回す毎日なのである。コークエナジーがますます手放せない今日この頃。

うーん、ダイエットもしなければいけないし、少し鍛えていくかなぁ。

 

 

体育祭の練習も、もう少し生徒の主体性を養う場として機能出来ないかなぁと思う。

学校行事の練習となると、どうしても「決められたプログラム通りに生徒を動かす」という側面が強くなりがちだ。開会式はこのタイミングで礼をせよだの、行進は一糸乱れず同じ動きをせよだの、もちろんそうした団体行動における規律が大切なのは分かる。極論、毎年報道される荒れた成人式のような惨状を引き起こすような人間には成長して欲しくない。和をもって調和しようとする心構えを鍛える場として学校生活が機能しているのは紛れもない事実である。

 

ただ、それならそれでまだやりように工夫はあるはずだ。「頭ごなしで全ての行動をコントロールする」ということに重きを置きすぎると、結果「学校(教師)が、どれだけ生徒を意のままに動かすことができているか大会」みたいな皮肉なことになりかねない。

やはりメインは生徒たちである。彼らが自分の意思でどう動くのかを考え、場の状況に対応できるような力を育てる場として体育祭の練習を考えていかねばならない。

とはいえ、人間は集団になるとどうしても気が大きくなる生き物なので、どうしても規律を守って行動することができなくなってしまうのは事実。ついつい押さえつけたくなってしまう。この辺りが非常に難しい。

 

やはり、こうしたことは突然学校行事の練習の時だけ指導しても効果は薄いように思う。

普段の生活、普段の授業から心構えを鍛えていかなければいけないのだろう。