ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。ブログ毎日更新中。

「メタフィクション」という名の諸刃の剣 ――「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」を見てもいないのに語る

※今回は、現在上映中の「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」および「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」のユルめのネタバレがありますので、未見の方はご注意を。また、発表からずいぶん時間が経った作品についても「もう流石にいいだろう」的な感覚でネタバレ全開で書いている部分が結構ありますのでご容赦を。犯人はヤス。

 

 

現在上映中の「ドラゴンクエスト ユア・ストーリー」に結構興味があったのですが、どうもネット上の評判は芳しくない御様子。

私は基本的に「ネタバレ」を嫌うため、レビューなどは見ないようにしているのですが、あまりにも気になったのでなぜここまで酷評されているのかを見てしまいました。複数のレビューを見た感想としては、「うん、それは無いわな」の一点に尽きます。いや、自分で実際に映画を観ずに他人の意見を鵜呑みにするのはナンセンスなわけですが、それを差し引いてもなお、いわゆる「オチ」の部分が衝撃的過ぎて実際に映像を見たわけでもないのにしばし呆然となってしまいました。それほどの「おい、それはアリなのか?」感の強さでした。

こうなってはもう、劇場に足を運んでまで観に行くことは無いでしょう。そもそも、私は生粋のドラクエ「6」派ですからね。「5」をモチーフにしたこの映画はそもそもそこまで琴線に触れてこない。ちなみに、人生で最高にやり込んだドラクエシリーズは「モンスターズ テリーのワンダーランド」。うん、正規ナンバリングですらない。

 

 

少し踏み込んだ種明かしをすると、そこにはいわゆる「メタフィクション」の手法が駆使されており、「俺は今『一つの作品世界を生きる一人の男の人生を描き出した壮大な感動巨編』を見ていたと思ったら、実はそれが全て『VR内での仮想世界を楽しむ一人のおっさんの物語』だった、ついでに『ゲームばっかすんな』的な説教された」みたいな、まさに催眠術や超スピードなんかじゃあ断じてない、そんな期待値を遥かに下回る陳腐な展開が繰り広げられていたようです。そりゃないぜ。

※繰り返しますが、実際に観に行ったわけではないのですべて受け売りです。齟齬があったらごめんなさい。

 

 

 

とりわけサブカルの世界においては、「生み出された作品はその内部で自己完結した世界を保有し、それはそれよりも一つ高次の次元の世界(現実の世界)とは関わりを持たない」という前提に基づいた「いくらなんでもそんな野暮なことはするまい」という享受者の心理的な死角を突いていくようなメタフィクションの手法は特に珍しいものではありません。

 

 

「メタルギアソリッド」では、制圧された施設から要人を救出する緊迫のミッションを行っている最中に「新しいヒントをくれる人物の無線周波数は、このゲームが入っていたパッケージの裏に書いてあるから、それを見ろ」と唐突に指示されたり、中ボスから「え、お前のメモリーカードに『ときメモ(恋愛ゲーム【ときめきメモリアル】の略)』のデータ入ってんじゃん、何? 好きなの?」と自分の嗜好を暴かれたりと、プレイヤー側からしたら「え、『メタルギアソリッド』の住人であるあなた方にとって、それは関係なくない?」とも言える発言がバンバン飛び出してくる。

「スターオーシャン」シリーズでは1と2で大切に築き上げてきた独自の世界観を、いきなり3で「これはゲームの中の世界、主人公のお前もゲーム内のただのプログラムに過ぎないから。あと、もちろん1と2の冒険も全部プログラムされた世界の中での話な」みたいなちゃぶ台返しを平気でやってくる。「劇中劇」ならぬ、「ゲーム内ゲーム」。

 

 

とりわけ、「メタ」と「推理物」との親和性は高いようで、古今東西あらゆる作品にメタ発言が散見されます。

 

ミステリー作家のエラリー=クイーンは作品の途中でしょっちゅう「『読者』への挑戦状」を叩きつけてきます。それをドラマに落とし込んだのが「古畑任三郎」で、ドラマの途中でいきなり画面が暗転したかと思えば、田村正和がテレビ画面ごしに視聴者に語りかけてくる場面はあまりにも有名。最後には丁寧に自己紹介までする始末。

「日本三大奇書」に数えられる中井英夫の「虚無への供物」では「犯人は読者!」みたいなことを作中人物が大真面目に議論しているし、東野圭吾が世に送り出した迷作「名探偵の掟」においては、明らかに天下一大五郎という探偵は自分が「推理小説の中のいち人物」であることを自認してめちゃくちゃな発言を繰り返している。その様はまさに、アメコミの「デッドプール」のような自由奔放なものであり、もはや我々は一体どこに視点の軸を据えて作品を楽しめばよいのか、それが分からなくなってしまう。

 

また、小説においては、似たような考え方に基づく仕掛けとして「叙述トリック」があります。(ただ、これはタイトルを挙げること自体がもはやネタバレとして機能してしまうので、具体的な作品は挙げずにおきます。)

 

そういえば、先日観に行った「劇場版 仮面ライダージオウ Over Quartzer」でも、「メタフィクション」発言があちこちで飛び交っており、突然ISSAが「平成ライダーシリーズ一作品一作品がどれも個性が強過ぎて全然統一感無いから、一旦全部回収してもっとマイルドにするわ」みたいなことを平気で言ってきたり、劇中で「仮面ライダーのスピンオフ漫画」が紹介されたり、「平成ライダーに選ばれなかったとある男」の悲痛な叫びを大画面で見させられたりと、「あれ、これって『仮面ライダー』っていうフィクションの世界の話じゃないの? 現実なの?」と思わせる場面が多々あります。前作の「仮面ライダー平成ジェネレーションズFOREVER」でもそうしたメタな発言や設定は目についたし、この「仮面ライダージオウ」という作品は製作側が積極的に「メタフィクション」を利用して、令和を迎えた時代の変わり目において「平成仮面ライダー」という一連の作品群を一概念として適切に処理しようとする仕掛けが見えてきて面白いところ。

 

 

個人的には、こうした「メタ」や「入れ子構造」の悪用(?)の極致にある作品として、安部公房の「箱男」を挙げたいところ。これはもう一読してもらわねば容易に説明することができないのですが、知り合いにお勧めしたところ読後の感想は全員一致で「何が何だか分からなくなった、迷路に迷い込んだような不思議な感覚に陥った」というもの。かの有名な「ドグラ・マグラ」ばりの「脳がバグる感覚」を味わえるのでとってもお勧めです。

安部公房作品には、こうした「作品世界」と「作中人物」の連続性の表現に強いこだわりが見られるところで、非常に強い魅力を感じるところ。「世界の認識」に関する「当たり前」を特大ハンマーで殴りつけてくる感じがあり、読後の不安感は病み付きになるものがあります。あまりにもそれが魅力的過ぎて大学の卒論のテーマにしたほど。何か物言えぬ魅力があります。

 

 

ともあれ、こうした「メタ」を取り込んだ作品は枚挙に暇がないわけですが、それらは全て「そうである必然性」を感じさせるからこそ許容されるわけであり、ただ単に「メタっとけ」的なスタンスでは反感を買うのは火を見るよりも明らかでしょう。

なぜわざわざ享受者の「こんなことがあってはいけない」というタブーに真っ向からケンカを仕掛けに行ってしまうのか。そこにある程度納得のいくだけの回答や、それを支える信念が製作者の中にあり、そしてそれを十分に理解させるだけの構成を準備できるか否か。それが「メタフィクション」が受け入れられるかどうかを左右する大事なポイントであるように思います。

 

うまくハマれば、作品に独自の色を付与する便利な飛び道具となり、それが結果として享受者に強い印象を与えることに一役買ってくれる頼もしい手法である反面、取り扱いが非常に難しく、下手をすると全てを台無しにしてしまいかねないほどの強大な力を備えています。その様は正に諸刃の剣、良くも悪くも、制作する側の度量や覚悟が試されるある種禁断の手法であるわけです。

 

そんなわけで、製作者の自己満足で終わってしまう「メタ」の手法ほど悲劇的なものは無いよなぁ、と感じる今日この頃でした。