やってないからできていない
学校にいるとよく耳にするフレーズの一つに、「この子はやればできる子」がある。いや、学校現場じゃなくても、あらゆるところで耳にしている気もする。大人はみんなこの言葉が大好きだ。
一見、子どもの可能性を信じ、鼓舞するような素晴らしい言葉のように聞こえるが、よくよく考えるとこれは単なる楽観である。「やったからできた」ならいい。「やればできる」ということは、それは「まだ何もやっていないからできるかどうかなんて分かりっこない」と言っているも同然だ。可能性の話を、あたかも既成事実のように言ってはならない。
あまりにも周りの大人がそうやってもてはやすことで、肝心の本人すら「自分はまだ本気を出していないだけ、やればできる」なんて考え始めるといよいよ危険信号だ。
経験に裏打ちのされていない自信など、単なるハリボテに過ぎない。肝心な時に自分自身を守る盾となってくれないし、いざと言う時に備えて矛を磨き続ける警戒心を奪ってしまう。安易な声掛けによって根拠の無い自信を植え付けることほど、残酷なことは無いだろう。
もちろん、子どもの可能性を信じるのは大事なことだ。かく言う私だって、子どもの秘めたる無限の可能性を発現させる喜びに惹かれて教師を志したと言っても過言ではない。
であればこそ、安易に励ましの意味合いで「やればできる」なんて言わない方が良い。
その言葉は胸の中にそっとしまっておき、「やらなきゃできないぞ」で我慢をし、実際に何かを成し遂げた時に、いよいよ「ちゃんとやったからできたじゃないか」を差し出してあげる。
そこまでしてようやく、自信は養われていくのではないかと思っている。
やらなくたってある程度は分かる
さてお次は「やってみなけりゃ分からない」。よく熱血主人公が言うやつ。
これまたカッコいいフレーズで、少年漫画好きな私には思い入れのある言葉なのだけれども、場合によっては単なる無謀な命知らずに過ぎなかったりする。
一番かっこ悪いのは、「やってみたけど駄目でした」であり、世の中結構これが起こっているから恐ろしい。これまた安易に乱用すると勇気と無謀を取り違えた大変な結果を招きかねない危険なフレーズと言える。
強かな計算のもと、完璧とまでは言わないまでも、せめて十分勝ちの目を狙えるほどには勝算を高めた後に「何事もやってみなければ分からないのは世の常ですが、流石にここまでくればもう心配ないと思います。これでダメなら悔いはありません」からの、「ほらね、思った通りにできましたよ」が理想か。ただ、そうなるともやはそいつは熱血漢でも何でもなく、単なるパソコンカタカタさせながらメガネをクイクイさせる嫌味な奴になってしまう。こんなのは主人公失格。スポーツ漫画では大抵かませ犬になる奴だ。少年漫画はデータ野郎に厳しい。
もちろん、完璧を求めすぎて小さく縮こまってしまってはつまらないにもほどがある。
人生、いざとなったらチャレンジすることも大切だ。ただ、そういう局面でも「勇気」と「無謀」は計り違えてはいけない。
「デスノート」でも「L」が「命を懸ける事と、命をやすやす奪われる可能性がある事をするのは正反対の事です」と言っているが、至言であると思う。まさに言いたいのはそういうことだ。
未来は明るい、されど無条件ではない
どちらにも共通するのは、「未来の明るさを安易に信じてよいものなのか」ということになる。
私は決してペシミストと言うわけではない。未来は明るいものであってほしいし、明るいものにしていけるはずだと常々考えている。
未来を見越して計画的に行動できるのが人間の持つ知性の偉大さである。無謀と慎重を絶妙な按配で止揚し続けた先人たちのおかげで今の私たちの生活があるわけで、そのどちらの心意気にも敬意を払うことを忘れてはならないだろう。
教育現場とて同じことである。未来の可能性を信じ大きく動いていくことと、未来を危惧し綿密な準備をすることと、そのどちらが欠けても明るい未来は開けないと思っている。
根が心配性の私である。賛同できない方がいることは承知で書いていることはひと言断っておきたい。あくまでも個人的な一見解なので、あしからず。