長年の謎。
私自身の幼少期よりの実体験に基づく疑問である。どうしても書店や図書館に行くと、トイレに行きたくなってしまうのである。これは母からもよく指摘を受けていた。曰く、「なぜちゃんと前もってトイレを済ませてこなかったのか」と。でも、仕方が無かったのである。どれだけ事前に対処していても、催すものは催す。出る時は出る。人間の生理現象であるが故、完全にコントロールすることはできないわけであり、幼心に「人体って不思議だなぁ」としみじみ感じていたものである。
その名も、「青木まりこ現象」
実はこれ、正式には「青木まりこ現象」と呼ばれており、1985年に発行された『本の雑誌』において「青木まりこ」と名乗る読者が提示した問に端を発した一連のムーヴメントに由来している。嘘のような本当のお話。Wikipediaにおける該当ページの充実っぷりは若干引くレベルで凄まじいものがある。ぜひ一度通読していただきたい。いちいち私が語る必要などなく、事の顛末や展望については全てそこに示されている。
かつてこのページを発見した時の私の衝撃と言ったら無かった。
世の中には同じ悩みを抱えた人がこんなにもいたのだ、という感動。そして、むしろそれ以上に、ここまで大事になっていたのかという一種の呆れ。人類の飽くなき探究心には頭が下がるばかりである。ここまでの一大騒動へと発展し、青木まりこ氏もさぞや本望であろう。
ちなみに、同種の謎に「なぜ太陽を見たらくしゃみが出るのか」、というものがある。これまた「光くしゃみ反射」と名付けられており、世では結構有名な問題である。
やすてるの個人的見解
さて、既に多くの先行研究者によってあらゆる可能性が提示されているわけだが、そのどれもが決定打とはなっていない。真相は未だ深い闇の中。一筋縄ではいかない問題なのだ。
生理学や病理学、果てには心理学といったあらゆる観点からこのメカニズムの解明を行うアプローチが存在しているわけだが、個人的には、やはり心理的要因によるものが大きいのではなかろうかと感じている。
「お楽しみ」から得られる効果を最大にしたいという本能的欲求の発露
「空腹こそが最大のスパイス」とはよく言ったものである。人間、おいしい食事にありつくことが前もって分かっている場合には、極力その直前には何も食べないよう努めるものである。
また、真に楽しみたい作品を鑑賞するに際しては、口コミやSNSを遮断するなど、事前にネタバレを避けようとする習性が我々には備わっている。
優れた作品を再び鑑賞する際に、「記憶を消してもう一度無心で楽しみたい」といった旨の発言もよく聞かれる。
これらは全て、ある制作物を享受する際に、そこから得られる感動および正の効果を最大にしようとする、人間の理に適った本能的な行動(欲求)である。余計な障害は極力排し、目標の達成に向けて全ての環境を整えてゆくわけだ。
「青木まりこ現象」にも、同様のメカニズムが内包されているのではないかと考える。
書店には膨大な量の書籍が並び、それはもう人間の知的好奇心をこれでもかと刺激するわけである。そんな折、人間の深層心理には、「これだけの圧倒的情報を摂取するのにはとてつもない集中力が必要であり、途中で余計な横槍を入れられてはたまったもんではない」といった思いが強く現れるのではなかろうか。結果、「出せるもんは先に全部出しておこう」、となり、それが尿意や便意のトリガーを引いてしまうのである。
「何人たりとも我が読書を妨げる者は許さん説」とでも言おうか。膨大な量の知識を目前に、人間の知的好奇心が最大限に奮起された結果が、「トイレ行きたい」を引き起こすのである。
明確な目的がある時には発生しない
学生時代には書店でアルバイトをしていたのだが、その時には一切「まりこる(青木まりこ現象が起こること)」ことは無かった。それは「今はあくまでも仕事であり、本を享受する時間ではない」という理性のブレーキが正常に働いていたからであると考えられる。
また、同様に購入物がはっきりと決まっていて、それだけを買うために書店に入った時にはそこまで「まりこる」ことが無かったということも、この説の正しさを裏付けているのではなかろうか。
未知なる内容に満ち溢れた不特定多数の本が並ぶ空間であること、そして、そのいずれとも自由なアクセスの可能性がある開かれた状態であること。この二点が揃った時、我々の深層心理において「青木まりこ」は悪魔の囁きをもたらすのである。「今のうちトイレ行っといた方がいいよ」と。
まぁ、結局はどうでもいいですね
この説は結構いい線いっているんじゃないかと思ったけれど、別にどうでもいいですね。
良い子のみんなは、本屋さんに行くときにはトイレを済ませてから行くか、近くにあるトイレの場所をしっかりと確認するようにしましょう。