※ただしやすてるの主観。「私は知ってるよ」という方もいるかもしれません。
本日は町内会の総会に参加をしてきました。なにぶん、来年は班長という大役を仰せつかっているもので。
都会暮らしの人にしてみれば、こうした寄り合い的なイベントは絶滅危惧種だろうと思いますが、田舎ではまだまだ活発に行われている現状があります。こんな世の中だからこそ、相互扶助の精神、結構大事ですよ。
【目次】
大勢の人間の合意を得る、ということ
「会議」という場では、議題について参加者全員で議論し、会員の総意という形で一つの合意を形成してゆくことを一つのゴールとして動いてゆくわけです。今回の総会も、もちろんそうした一つの到達点を見据えた上で進行していきました。
会議においては、大まかなフォーマットというものはある程度決まっているように思います。議長の進行のもと、担当者が議題についての補足説明を行い、会員による質疑応答があり、最終的に決を採る。全国津々浦々、この流れに大差は無かろうと思います。
しかし、本日ふと思ったのは、決まっているのはその大まかな部分だけだよなぁということでした。それぞれの場面で、議長はどう動くべきなのか、その他大勢の参加者は何をすべきなのか、そんな細かい部分はなおざりにされているように感じます。
「会議」の形骸化
例えば生徒総会。
まず初めに断っておくと、私は自身の母校以外には二校しか事例を知りません。サンプル数が少な過ぎると言われたらそこまでなのですが、どうも学校現場における「生徒総会」なるイベントは形骸化しているように思えてなりません。特に現任校においてはそれが顕著で、「総会」の名を借りた単なる予定調和のお芝居を見ているような、そんなむなしさを毎回感じます。
教員の準備した台本通りに、何の疑いも持たぬ生徒会役員が動かされてゆく。生徒会員からも建設的な意見はほぼ出てこずに、ただただ時間だけが浪費され、することと言えば訳も分からぬまま促されるように行う合意の拍手だけ。そんなこんなで気付けば会は終わっている。毎回そんな感じです。
(もちろん、そんなことはなく、意義ある議論が交わされる学校もあるのでしょう。是非とも、どうすればそこまで生徒が動いてくれるのか、その秘訣をお聞きしたいところです)
別に生徒を責めているわけではありません。
国会中継を見ていても大して有意義な議論が交わされず、むしろ足の引っ張り合いにも等しき茶番が繰り広げられている現状を見ると、我が国の議論の場ってこんなものなのかなと、少し悲しくなります。勤務校の職員会議も、「議論」の場としては機能しておらず、「このご時世ならば、メールで関連資料を配布すれば十分事足りるのでは?」と感じるケースもままあります。
誤解なきよう断っておきますが。特定の誰かを批判したいわけではありません。ただ純粋に、この現状がどうなのだろうかと疑問に思っているだけです。
果たして、世の「会議」の中で有意義と言える会議は何パーセントくらい存在しているのでしょうか? 非常に気になります。
「教育」でどこまでカバーできるのか?
ネットで良質な授業動画をいつでも、どこでも、何度でも視聴できる時代。その気になれば、学校に通わずとも多くの知識を獲得できる。我々はそんな時代を生きています。
そんな中、学校だからこそ学べることの一つに「集団の中でどのように振る舞うべきか、という技術の体得」が挙げられます。
高度な情報化が進んでいるとはいえ、まだしばらくの間はほとんどの人間が従来型の社会に身を置きながら生活を営んでいくことになります。そして、主義や思想の異なる者同士で構成された集団の中で生きる以上は、どこかで合意を形成する機会を設け、その都度互いの意思を疎通してゆく必要があるわけです。この手法については学校現場で教えておく必要があります。
しかし、先に述べたように、そもそも「正しい(とされる)会議の進行」について、誰もがはっきりとしたことを言えない現状があります。
「まずは我々教員が」の精神に基づけば、しっかりとした共通認識を持っておきたいところですが、これがなかなかに難しそうです。いやはやどうするべきか。
まずはそこから議論していかなければなりません。(無限ループ突入)