ネコとコーラと国語と私

私立高校勤務の国語教師が感じた教育に関するあれこれ。あとたまにネコとかコーラとか。

「孤独」を必要以上に悲観する若者たち


今日はパソコンもWiFi環境もない実家に来ているため、軽めの文量で。
人里離れた山の中にある実家は、まさに「陸の孤島」然としており、雑踏の賑わいに慣れている人にとっては相当な「孤独」を感じてしまうことうけあいです。

 

 

「孤独(孤立)」はなぜいけない?


生徒からよく聞く悩みに「友達の輪に上手く入れずに孤立してしまう」というものがあります。

「孤立」という状況は、高校生にとってはそれが決して許されざる絶望にも等しい状況のように感じられてしまうらしいのです。

 

こうした考えの背景には、小学生の時(あるいはそれ以前)から「みんなで仲良くしましょう」と言われ続けたことによって形成されてしまった、「孤立=悪」という観念が見え隠れしているように思います。


しかし、頭を冷やして考えてみると、「一人ぼっち」という状況は悪いことでもなんでもないはずです。
かく言う私も、どちらかと言えば一人きりでいる方が性に合っているように思います。特に、考え事をしたい時などはむしろ一人きりになりたいと考えてしまうほどです。

 

 

「寂しさ」は主観的なもの

 

結局は、「一人ぼっち」という状況を、当の本人がどう思うかが大事なわけです。
必要以上に孤独を恐れたり、忌避したりするのは何か固定観念に縛られているように思えてなりません。

寂しいのなら周囲との繋がりを求めれば良いわけだし、そうでなければ、自分一人きりの世界に思う存分没頭すれば良いわけです。


どちらが正しいのかを決めるのは、その場その時の「自分の正直な気持ち」であるはずです。大多数の決めた「かくあるべし」に左右されるのは非常に勿体ないと常々思うし、生徒にもそのように伝えるようにしています。

 

もちろん、本当に孤立感に悩まされているのなら、そこには教師の介入が必要になります。

一方で、「みんなの輪に入れなくて何か困ったことがある?」と聞くと「いや、特には……」といった答えが帰ってくることもしばしばあります。そんな子には、「じゃあ別に悩む必要は無いよね」と答えるようにしています。

生徒がどこの部分で悩んでいるのか、ということを見極める力も、教師に求められる大切な能力です。

 

 

無自覚の「洗脳」ほど怖いものは無い


教育の現場では、時としてこうした「理由無き固定観念」を押し付けてしまっている時がありますが、それは最早「洗脳」と同義です。


教師の語る言葉には、それなりの影響力が宿るのは動かしようのない事実でしょう。
であるからこそ、教師自身の理想とする観念が、世の真理を冷静かつ正確に捉えているのかどうかを常に自己点検していかなければなりません。

 

何なら、「こう教えるべき」という固定観念によって我々教師自信が洗脳されている状況も結構あったりします。ああ、恐ろしや。是非とも自分の頭で考えられるようになりたいものですね。